村人の手記・証言/戸坂村の人たち

2.義勇隊訓練のあった日

6日の朝、国民義勇隊(ぎゆうたい)の訓練を終えて帰宅し、朝食をすませてゆっくり休んでいた時だった。ドーンという音がしたので外を見ると落下傘(らっかさん)のようなものが北へ向いて行った。その後きのこ雲が見えた。爆風(ばくふう) で家の建具が全部倒れ、ガラスは割れ、天井(てんじょう)はめくれ、床板は落ち、襖(ふすま)はこわれ、瓦(かわら)は魚のうろこのように上へ向いた。住宅がもえているようだが、出江(いずえ)の人が登って消したのだろう。

家のことは放って役場にかけつけた。9時ごろには、被爆者(ひばくしゃ)が来始めた。最初に来たのは、戸坂の数甲(かずこう)のAさんだった。Aさんは、義勇隊の指導員だったので、義勇軍の訓練を終えて広島に釜(かま)を買いに行って白島(はくしま)で原爆にあった。Aさんは、帰って来て、白島がやられたと言った。1月後亡くなった。Bさんも同じく広島で被爆し、まもなく亡くなった。帰って来た者は、2人が肩をかし、声をかけなくては歩けないような状態だった。「村長さん、やられたからかたきをとって下さい」と言っていた。戸坂(へさか)の人は、その朝、義勇隊訓練があったため、あまり広島に行っている人がなく、犠牲者(ぎせいしゃ)が少なかった。村長さんのおかげだと感謝した人もいた。

お寺の前を髪が焼けて白くなった人、赤い下着を着た人が通り過ぎた。広島で何があったかわからなかったので、最初は今日は仮装行列(かそうぎょうれつ)でもあるのだろうかと不思議に思った。 (奥様の話)

小学校は広島市民を受け入れるようになっていたが、軍(陸軍病院)が貸してほしいとの事で、契約を結んでいた。被爆者はどんどん来るが軍人さんを入れなくてはいけないため、地方の者は入れなかった。少しして、天水(あまず)に番人を置き地方の者は高陽町(こうようちょう)に行くように言ったが、どうにもならなかった。

前々から非常事態がおきた時の事は話し合いができていた。各常会 (じょうかい)長を呼んで軍人さんを町内会に割り当てた。常会長は軍人さんを連れて帰り、家の広さにあわせて5〜10人、各家へ割り当てた。各家には軍人さんが多かったが、縁故(えんこ)の人で地方の人も少しはいた。

婦人会から炊出(たきだ)しをし、各家庭にむすびを配ったが、玄米(げんまい)で病人は食べられなかった。陸軍病院糧秣廠(りょうまつしょう)から玄米、しょう油、味噌、みかんのかん詰め、海草、佃煮(つくだに)などが出た。家庭の病人の食事は、各家庭が出した。

少しして、九州の小倉(こくら)から軍医さんが20人くらい来た。軍医は1月くらいいて、各家庭に治療(ちりょう)に回った。各家では、農家で野菜をもらい、キュウリのおろしたものや、トマトを病人のヤケドにつけた。また、ドクダミソウを学校へ持って行ったりもした。病人は、少しよくなったら、奥地へ送った。帰って行く時、着る物がなく、各家のものを着せたが、全く着る物がなかった人は軍のゴザを体に巻いて帰った。

死体処理は、すぐにはできず、一応落ちついて行った。処理は警防団が死体を集め、3段にして下に薪(まき)を敷き石油をかけて、1度に360人くらい火葬(かそう)したように思う。夜焼くと、火が見え空襲(くうしゅう)にあうので、朝から焼いた。各家で亡くなった人々は学校の校庭に運んで行った。学校の運動場のイモ畑に死体がころがされていたが、雨が降ると水分をすって死体が異状にふくれた。

6日の夜おそく、軍人さんが1人泊めてほしいと言って来た。傷をしているのに、牛田(うした)の川原でじっと本部からの指示を待っていたためおそくなったと言う事だった。

個人的に家に帰る金を貸してあげたけれども、もどってこないところをみると、たぶん亡くなられたのであろう。とにかく、役場の仕事どころでなく、1日中はしりまわっていた。

金子 豊(当時・村長) 話