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広島における被爆に関する基礎知識
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■ 原爆投下
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1945年8月6日午前8時15分、
広島市の中心部に位置する
T字型の相生橋をターゲットとし
上空31,600フィート(約9,600メートル)で
世界で初めての原子爆弾が
B29エノラ・ゲイから投下された。
そして通常爆弾TNT15キロトンの
破壊力を持つとされる一発の原爆は、
島外科の上空600メートルの地点で炸裂した。
その時の強烈な閃光と爆音から、
その後多くの被爆者達は
原爆を「ピカドン」と表現している。
炸裂と同時に空中に直径約100mの火球ができ、
それは約10秒で消滅した。
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8時15分で止まった時計
爆心地より1.6キロで被爆
二川 一夫さん 寄贈
広島市
平和記念資料館所蔵
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■ きのこ雲
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爆弾投下5分後には
直径約3マイル(約5キロ)にわたって
巨大な雲が広島市を覆った。
ほとんどの被爆者が証言の中で
「目の前が真っ暗になって何も見えなくなった。」と
述べているのはこの雲のためである。
その中心部から白い煙の柱が立ちあがり、
それは上空55,000フィート(約17,000メートル)に達し、
頂上は大きく広がっていった。
それが「きのこ雲」と呼ばれる所以である。
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原爆投下約1時間後、
80キロ離れた瀬戸内海上から米軍撮影
ヒロシマ・ピース・サイトより
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当時の広島市の人口は、
軍関係者約4万人を含め
35万人前後であったとされているが、
同年7月から実施されていた
第6次建物疎開で入市していた
近隣町村からの義勇隊、動員学生など
約1万人、また仕事などで
市内に入っていた人も多く、
昼間人口は40万人になっていたという説もある。
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その中で同年12月末までに軍人2万人を含め、
約14万人が死亡したとされている。
(1976年の「国連への要請書」より)
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この数字から換算すると、
原爆投下から約5ヶ月で広島市の人口の
3人に1人が亡くなったことになる。
そして生き残った被爆者も、
その後長く原爆の後障害による肉体的苦痛。
家族、家すべてを失ってしまったことからくる精神的、
経済的苦難の年月を送ることになるのである。

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■ 原爆の威力
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原爆のエネルギーは
熱線35%、爆風50%、放射線15%と言われている。
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熱線
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投下直後、地上600mで炸裂した原爆は、火球となり
瞬間的に摂氏100万度に達し急速に膨張、
10秒後に消滅した。爆心地付近の地上では
約摂氏3000〜4000度の照射があったと推定される。
少し離れたところからこの火球を目撃したある被爆者は、
「太陽が広島に落ちたかと思った」と表現している。
この太陽の表面温度にも匹敵する高温の熱照射は、
半径3キロ以内の地上にいる生き物に
多大な被害をもたらした。
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爆心地より半径1キロ以内の屋外にいた人では、
一週間以内に90〜100%が亡くなっている。
即死者数は把握されていない。
爆心地近くでは、影だけ残して人体が
すべて跡形もなく熔けてしまった例もある。
瞬間的な照射により、影以外の部分が焼け、
あたかも影が道路などに
転写されたように見えるためである。
また半径2キロ以内の遮蔽物のないところにいた人では
一週間以内の死亡率は83%であった。
建物に関しては、
半径3キロ以内にある木造建築物では、
爆発による爆風より以前に、
熱線によって自然発火したと考えられている。
その火は「嵐」のように吹き荒れ、
夕方まで市内全域に猛烈に燃え広がり、
その後3日間は市内各地でくすぶり続けた。
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万代橋の欄干の影 爆心地より890メートル
米軍撮影
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全身火傷の男性 爆心地から1キロメートル内 |
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1945(昭和20)年8月7日
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尾糠政美さん撮影
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爆風
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原爆炸裂とともに発生した火球は、
熱線と同時に数十万気圧という
超高圧状態を生み出した。
その超高圧と大気圧との気圧の差が
爆風となったのである。
その爆風は半径800メートル以内の
耐震構造を持たない
コンクリートの建物をも完全に崩壊させるものであった。
当時の広島では家屋のほとんどが木造だったが、
半径2キロ以内ではすべての木造建築物は崩壊した。
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爆風と熱線による被害は
明確に区別することは不可能であるし、
その二つとその後起こった火災が組み合わさり、
複雑に関係しあって被害を増大させたと考えられる。
爆心地から半径2キロ以内では、
耐震構造を持つコンクリートの建物を除いて、
すべてが崩壊し焼失した。
また3キロ以内でも
90%以上の建造物が崩壊、焼失した。
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被爆直後の広島全域
1945年10月
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米軍撮影

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■ 放射能
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原爆の被害について語るとき、
放射能というこれまでに人類史上使われたことのない、
また決して使われるべきではなかった
物質を取り上げないわけにはいかない。
広島型原爆の破壊力の点では15%にすぎないが、
その恐怖は原爆投下直後から始まり、
子々孫々の代に至るまで消えることはない。
それは放射能という物質の中には
半減期ですら数万年のものもあり、
またそれを浴びた者の染色体までをも
変形させてしまうからである。
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急性障害
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原爆投下直後から
その年の終わりくらいまでに現れた
放射能による身体的障害を急性障害と呼ぶ。
被爆直後から2週目の終わりごろまでに
嘔吐、下痢、発熱、倦怠感などが現れ、
続いて脱毛、歯茎からの出血、紫斑などが現れた。
被爆直後は外傷もなく、
元気そうに見えた者も次々と亡くなっていった。
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脱毛、歯茎からの出血、
皮下出血の紫色の斑点が現れ、死直前の兵士。

爆心地より約1キロで被爆
1945年8月末、木村権一さん撮影
ヒロシマ・ピース・サイトより
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後障害
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原爆の被害が
他の兵器による被害と異なる点は、
いつどのような障害を発症するのか
誰にも分からないという点であろう。
現在分かっている主な後障害には、
原爆白内障、白血病、悪性腫瘍がある。
遺伝的影響は今の時点では確認できていないが、
今後世代を超えて観察していかなければわからない。
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ケロイド
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被爆の翌年から
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白内障
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被爆後5年くらいから
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甲状腺がん
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被爆後10年くらいから
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乳がん、肺がん
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被爆後20年くらいから
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黒い雨
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原爆投下の20〜30分後から
黒い雲が湧き上がり、
広島市の中心部より北北西の方角に
移動していき、午前9時ごろから
午後4時ごろにわたって、
北部や西部で驟雨(しゅうう)現象を起こした。
雨は当初1〜2時間は泥分の多い
ねばねばした黒いものであった。
それは原爆炸裂時に地上から巻き上げた泥塵や、
その後発生した火災による煤塵であったが、
原爆から放出された放射性物質を含んでいたため、
この「黒い雨」に直接うたれた人々は、
その後直接被爆した人と同じ症状に苦しむことになった。

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■ 救援活動
原爆投下直後の広島市内では、
爆心地近くで即死した者に加え、
またたく間にひろがった火の海の中で、
爆風によって倒壊した家屋の下敷きになり、
逃げ出すこともできず、
生きながらにして焼かれてしまった者も多くいた。
かろうじて市内中心部から大火傷を負いながらも、
生き残った人々は東へ西へ南へ北へと、
とにかく安全なところに身を置くために逃げ惑った。
着ていた服もボロボロになり、
ほとんど何も身にまとわず、
皮膚はやけただれ、だらりと垂れ下がり、
言葉を口に出す力さえなく、
ただ一歩一歩足を前に出すだけで
精一杯の人々の長い列は、
多くの証言者が「まるで幽霊の行列」のようだった
と述べている。
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炎の海の市内から大火傷を負って逃れてくる人々
1945年8月6日午前8時45分頃(ごろ)
爆心地から約2200m 牛田南一丁目

平田 照昌さん作
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この人々と逆に、
燃え盛る市内に入って行こうとしたのは、
我が子、兄弟、親を探そうとした人々であった。
その多くは行く手を火の海にさえぎられ、
幾日も幾日も歩き回った。
また爆心地から4キロのところにあった
陸軍船舶司令部(通称:暁部隊)は、
比較的に被害も少なく、ただちに船とトラックを使って
被災者の救援のために、
市内中心部に向かって活動を開始した。
広島でたいへんなことが起こっていると聞いた
近隣の町村からも、
多くの人々が救援のために市内に入って来た。
これらの人々もまた残留放射能によって被爆し、
その後原爆症に苦しむことになる。(入市被爆)
当時広島に投下された爆弾が原子爆弾であったことは、
人々には知らされなかった。
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学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた負傷者
爆心地から約3,100m 旭町

陸軍船舶司令部撮影
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市内から運び出された重傷を負った被爆者達は、
陸軍検疫所のある似ノ島をはじめ、
50数カ所に設けられた救護所に連れて行かれた。
しかし広島は壊滅的な破壊を受けており、
市内にはほとんど医師も看護婦もいなかった。
また薬もすぐに底をつき、治療といっても包帯を替えたり、
油や赤チンを塗ったりといったことしかできなかった。
真夏の一番暑い時期であったために、
傷を負ったところは膿を持ち、
そこに何十、何百というウジがわき、
それがまた被爆者を苦しめた。
市内では黒焦げになった遺体をあちこちに集め、
荼毘に付す作業が何日も続けられた。
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トラックで集めた死体を川原で火葬する
1945(昭和20)年8月17日
爆心地から約2,000m 福島町

藤井 茂男さん作
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■被爆の実相 参考文献
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| *「広島原爆戦災史 第一巻総説」 |
1971年8月6日
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広島市役所発行
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| *「原爆被爆者対策事業概要」 |
1998年7月
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広島市社会局原爆被害対策部発行
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| * 「原爆放射線の人体影響1992要約版」 |
1993年3月31日第1刷 |
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(株)文光堂発行
放射線被爆者医療国際協力推進協議会編
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| *「図録 ヒロシマを世界に」 |
1999年第1刷
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広島平和記念資料館発行
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| * 「ヒロシマ読本」 |
1978年7月20日初版
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(財)広島平和文化センター発行 小堺吉光著
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写真、絵の提供
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* 広島平和記念資料館
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* 広島原爆障害対策協議会
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* 松重美人氏
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