2008年10月03日

被爆者スウェーデンで証言活動

HIROSHIMA SPEAKS OUTのメンバーでもある被爆者の村上啓子は、今年もスウェーデンで精力的にヒロシマを伝える活動を繰り広げた。その様子を現地の新聞が取材している。

Goteborg 新聞(08年9月18日の記事)

広島の生存者村上啓子さんが、いかに広島の原爆を生き延びたかの話は言語に絶するものではあったが、同時に彼女の生き方はインスピレーションに富むものでもあった。
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本当に経験した本人から話が聴けたのは大変素晴らしかったと最前列に座っていたマリ・スペンドロップさんは語る。
水曜日、バッカ・クルツールハイムでは水を打ったような静けさの中、集まった20人ほどの熱心な聴講者が村上啓子さんの起伏にとんだ人生の物語に聞きふけった。
1945年8月6日、当時8歳の彼女は爆心地からわずか1.7キロ離れた広島の自宅にいた。友人であるヨルデイス・アンダーソンの通訳で啓子さんは家族全員が奇跡的に原爆を生き延びたこと、しかし生涯心と身体にキズが残った模様を語った。
それほどの悲惨を経験したにもかかわらず、彼女の力強さを見てとても感動したと語るマリさんに夫のカールさんもうなずく。
そういう体験をしたことのない我々には信じがたいと彼は付け加えた。
聴衆が心を打たれたのはもちろんのことであったが、啓子さんが自分の経験を語れるようになるまでは長い月日がかかった。
ヨルデイス・アンダーソンさんに18年前に会うまでは自分の経験は人には絶対に語りたくなかったと啓子さんは続ける。しかしそのうちに自分には経験を語らなければならないという義務感と重要な使命があるのだと気づいた。広島の生存者は年々数少なくなっており、人々、特に若い人々に経験をきいてもらって世界平和のために力を注いでもらいたいのですと啓子さんは結んだ。
(訳)ルンド・恵

2008年06月09日

アメリカの大学生たちが「原爆」を学ぶために来日

広島~長崎で、彼ら熱心に質問しノートにとる

 2008年5月24日から6月2日までの予定で、アメリカ、ニューヨーク州のColgate大学から、教授2名と学生29名が広島・長崎で平和学習をするために来日した。広島でのスケジュールなどはHIROSHIMA SPEAKS OUTがアレンジした。

 彼らは、来日前に、井伏鱒二の「黒い雨」や大江健三郎の「ヒロシマノート」を読み、おおまかな原爆投下の実相は、学習しているということだった。
 そこで今回は実際の被爆者の話を中心に据えつつ、核兵器の恐怖は過去の出来事ではなく、現在の恐怖であることを学んでもらうようなスケジュールにした。

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資料館では熱心にボランティアの説明を聞いていた
 特に核保有国であるアメリカの若者たちである。将来、アメリカ社会の中心的な役割を果たすであろう彼らに、核兵器を持つことで、国民の安全や平和を守ることができるのかどうか、を考える機会にしてもらいたいと思った。

 24日の午前中、原爆資料館での学習と広島市平和文化センター理事長のスティーブ・リーパー氏による講演を聞いた。

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 リーパー理事長は、まず現在の核兵器の拡散状況を説明し、拡散を防止するために結ばれているNPT条約の不平等さ、抜け道について話された。また核兵器はなぜ廃絶されるべきなのか、どのようなプロセスで廃絶が可能か、広島市はどのような努力をしているかなどを、論理的に分かりやすく話された。

 学生たちは、話の一字一句を聞き漏らすまいと熱心にノートを取っていた。
 講演後の質疑応答でも、具体的な質問が次々と出された。質問に答える中で、リーパー氏は核の平和利用について、個人の立場としてと前置きしつつ、
 「廃棄物処理の難しさ、危険性などを考慮し、太陽エネルギーなどの代替エネルギーに変換していくべきた」
 と述べられた。また化学兵器、生物兵器に比べ、核兵器は開発に広大な実験装置が必要で、現在のように地球を周回する衛星から監視できる時代では、施設の発見はたやすい。また放射性物質の管理も、IAEAの権限を強化をするなど国際管理体制を構築することで、徹底されやすいと話されていた。

 午後は2人の被爆者の体験を聞く機会を持った。具体的に家族、友人らを失くした悲しみや自身が被爆によって、長く苦しみを受けた話を直接被爆者から聞き、アメリカの学生たちは非常に衝撃を受けたと感想を述べている。

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被爆者の話を聞く来日した学生たち         
 その後、彼らが自分たちで折ってきた折鶴を「原爆の子の像」に捧げた。

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自分たちが折った千羽鶴を「原爆の子」の像に捧げた 

 翌日25日は、広島女学院大学に出かけ、同大学のクライン教授から日米の文化比較などの話を聞き、英文科の学生たちとランチを食べたり、交流のひとときを持った。

 そして27日に宮島を見学、28日に岩国の米軍基地訪問を経て長崎へと移動して行った。 

30名近い学生だったので、移動などに手間取るかもしれないと心配していたが、その懸念はすぐ払拭された。彼らは20歳前後の若者だったが、まじめで時間には決して遅れることなく、話を聞く時も誰も私語をすることもなかった。どのレクチャーでも熱心にノートを取り、質問も多く出た。

 Colgate大学では、今後もこのようなツアーを続けるということで、大いに楽しみにしている。

2007年10月10日

「集団自決(強制集団死)」

高校社会科の教科書の検定問題について、写真家の森住卓氏が現地で詳細な取材をされ、以下の文を送ってくださいました。転載可ということで、HSOのエッセイ欄に紹介させていただきます。
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森住 卓(寄稿)

9月27日から10月13日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしていました。
その時出会った人々のことを記しておきます。

「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村と座間味村は沖縄本島南部の西方海上の慶良間諸島にあります。(集団自決はここだけではありません)
周辺の海は世界有数の透明度を誇っておりダイビングポイントもたくさんあります。この海域は毎年春になると鯨がやって来る、ホエールウオッチングも出来る観光名所です。
那覇からの高速船は戦争体験のない若者たちで一杯でした。彼ら多くは62年前、太平洋戦争末期に起こった、この島々の悲劇を知る者は数少ないのではいでしょうか。

1945年太平洋戦争末期、押し寄せてきた米軍艦船で渡嘉敷村、座間味村の島々の海は埋め尽くされました。船伝いに本島まで渡って行けるようだった、と当時の目撃者の話しです。小さな島は敵艦船に包囲され、連日激しい空襲と艦砲射撃が豪雨のように降り注ぎ、島の地形が変わってしまうほどでした。島にある船は破壊され、逃げるすべもなく島は完全に孤立しました。
「必ず友軍が巻き返しに来る」事を信じて疑うものはいませでした。
「一億玉砕」「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が浸透した魔の戦場と化したのです。「鬼畜米英」とすり込まれた住民は、「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」と信じ込まされ、捕まるより「天皇陛下のため、お国のためにいさぎよく死のう」とすり込まれていました。
米軍が上陸した3月26日(座間味)、27日(渡嘉敷)以後、集団自決(集団強制死)が始まったのです。

「集団自決(強制集団死)」を体験した証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。
自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えられてしまったなら、同じ過ちが繰り返されると。

身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像を絶するものがあります。生き残ったひとびとのインタビューで「体験していない者には本当のところを理解できないですよ」と言われた時に、確かにそうだと思いましたが、同時に「あなたはジャーナリストとしてどのように伝えるのですか?」と問われたのだと思っています。
世界の戦争被害の歴史の中で、これほど残酷で無惨な体験を私は聞いたことがありません。

1945年3月末、米軍が上陸した後、米軍に追い詰められ、日本軍から保護を受けらられなかった住民は「愛する故に愛する我が子を、妻を殺さなければならな」かったのです。「天皇陛下バンザイ」を叫んで。
渡嘉敷では米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が役場職員や青年にひとり2個ずつ手榴弾を配りました。「一発は米軍に投げ、一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品で、多くが爆発しませんでした。
手榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃えさかる炎の中に。最後に残された父親は死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていました。二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。

座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米軍が迫ってきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄からとり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。じっと目をつむったままでした。そのため、妻のどこに刃が当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながら、やがて大量の出血で意識を失って行きました。
押し黙っていた校長は自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。
「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃していました。
飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。

「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想でした。
しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたのです。
「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかを最も劇的な形で現れた事件でした。

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦をはべらせ壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1980年に密かに座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。
住民は自発的に集団自決した」という証言をとるためでした。
元村収入役謙兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏はお酒が大好きでした。そこに目をつけた梅澤元少佐は早朝から酒をすすめ酔わせたのです。酔ったA氏はそれでも「嘘の証言を書くこと」を拒み続けました。
梅澤は「母が住民自決を命令した息子を持って肩身が狭いといっている。母を安心させるために、自決命令は出さなかったという証人になってくれ。この文書に署名してくれ。この文書は母に見せるだけで他に使わない」と約束し事前に用意してきた文書にA氏の印鑑をつかせました。

その5年後神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。そしてこの文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。

深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血のにじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくた97才になるおばあさんが自決現場近くに案内してくれました。しかし、身体が震えて現場までたどり着けませんでした。
インタビューが終わると1時間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。

証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んだ深い傷を思うとき、一度や二度の取材でこの人々の痛みを理解したなどと絶対に言ってはならないと固く思ったのです。
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした。
(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならいと思っています。

HSOメンバー村上啓子パネラーに

 株式会社Human Resources Institute主催のソーシャルパワーセッションの「第3回 ”ヒロシマ”から考えたい!語り継ぎたい!”いのち”の尊さ」にパネラーとしてHSOメンバーの村上啓子が招かれることになった。

日時:2007年11月10日(土)13:30~17:30(13:00開場)
場所:ビジョンハウス表参道 (東京原宿HRIオフィス)
詳細は以下URLにてご覧下さい。
 http://www.hri-japan.co.jp/pre/sps-top.html

村上啓子から

原宿は若者が行き交う賑やかな街ですが、辻を曲がれば閑静な路地もあるんです。ビルだけど木の家と言うほうが相応しい佇まいのビジョンハウス。
 その主が株式会社HRインスティテュート。経営や人材育成のコンサルティングにとどまらず、社会に窓を開ける企画を推し進めているユニークな企業体です。
 会社役員・稲増美佳子さんとの出会いから、HSOメンバーである私が伺うことになりました。被爆体験はもとより国の内外で見聞したことを語り、次世代に継承してもらいたいことなども伝えようと考えています。参加者とのセッションも楽しみです。

 過日、スタッフの藤森啓子さんに会いました。彼女は、準備の手始めに井上恭介・著「ヒロシマ 壁に残された伝言」(集英社新書)を読まれました。ブログに感想も載せてくださいました。
http://cozy.vision-blog.com/?day=20071005

2007年10月08日

江戸川平和コンサートのお知らせ

音楽劇「禎子と千羽鶴」上演

脚本:キャサリン・S・ミラー
脚色・翻訳・演出:登坂倫子
音楽:芳賀一之

日時:11月18日(日)PM1時開場
会場:葛西区民館4階ホール
交通:東京メトロ「葛西駅」徒歩5分
主催:親江会(江戸川区在住被爆者の会)
後援:江戸川区 区教育委員会
   江戸川原爆犠牲者追悼碑の会
入場無料

2007年08月13日

鶴の大群がヒロシマへ

村上啓子

 「ヒロシマを世界へ発信」がHSOのモットーです。同じ思いで活動している人たちや平和を築こうとして学習している人たちへエールを送ることも積極的に関わっています。

 ① 2007年6月19日、マリンバ奏者の古徳景子さんとHSOメンバーの村上啓子はアルゼンチン、ブエノスアイレス日本人学校を訪問しました。飛行機の到着が遅くなってメールで約束してあった時間に大幅に遅れたのですが、快くお迎えくださいました。明るく活発な生徒さんたちにヒロシマを語り、戦争や核兵器について対話をしました。生徒さんの反応が敏感なのは異国に住んでいるからでしょうか。
 生徒さんたちから羽にサインをした折鶴を託されました。

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(ブエノスアイレス日本人学校で広島を語る)

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(みなさんと一緒に)

 ② 2007年6月20日、景子さんと村上啓子は、ブエノスアイレスの打楽器奏者たちと交流しました。なかでも景子さん共演者、ガブリエルさんとヘクトルさんは景子さんの曲「学」が、歴史から学ぶべしと呼びかけていることに共感して、大勢の仲間に呼びかけて集会やコンサートを催してくださいました。折鶴の学習会もしました。みんなで折った鶴も託されました。

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(折鶴の完成に歓声!)

 ③ 2007年7月10日、東京都世田谷区砧南小学校で、元宝塚歌劇団員だったノリコさんによる「サダコと千羽鶴」の朗読と、HSOメンバー村上啓子が被爆証言をしました。終わった後、生徒さんたちは礼儀正しく順番を待ってノリコさんや村上に「戦争を失くすのに何が一番大切ですか」「はだしのゲンのお父さんは、戦争をしてはいけないと正しいことを言ったのに、何故、非国民と言われたのですか」「被爆者と握手したい」などと鋭い質問や、優しい言葉をかけて下さいました。  

 そして・・・一週間後、生徒さんたちが折った鶴が大きな段ボールにイッパイ、届きました。それは生徒さんたちの自然な気持ちの高ぶりから折った鶴で、先生や父母の干渉は全くなかったそうです。ちょっと、傷ついた鶴も居たのですが、手当てをして、全部、ヒロシマに届けることにしました。

 村上は、せっせと糸でつなぎました。取材に来られていた広島テレビの渡辺由恵ディレクターもお手伝いしてくださいました。

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(1311羽の鶴をつなげる)

 ④ 2007年7月30日、ミシガン州カラマズー市から来られた二人の高校生に手伝ってもらって、たくさんの折鶴を「原爆の子の像」に捧げました。その夕刻、広島テレビの「テレビ宣言」に、その様子が放送されました。

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(原爆の子の像の前にて)

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(託された鶴を捧げる)

 注:ミシガン州カラマズー市は1963年より静岡県沼津市との姉妹都市になっていて、隔年に相互訪問を繰返しておられます。2005年から訪日された人たちの中に希望者があればヒロシマ学習をするプログラムを創設されました。HSOは、初回から学習のお手伝いをしています。勿論、宮島への案内もです。

2007年08月12日

62年目の原爆の日

2007年8月6日
浜井道子

今年も一年で最も暑いこの季節に、原爆で亡くなられた方を悼み平和を願う式典が広島市平和記念公園で開催された。
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(式典のあとも祈る人々の列がたえることはなかった)

午前8時15分には式典会場だけではなく、町中で、電車の中で、家々で人々は犠牲者の冥福と平和を祈り黙祷を捧げた。
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(核兵器反対を訴えて集会をする人々)

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(被爆ピアノも平和を訴えていた)

式典の後、市内各所、公園内では様々なイベントが開催され、夕闇に包まれる時間に行われる灯篭流しで、長い一日は終わりを迎えた。
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(灯篭に平和への思いを書き込み黙祷を捧げる人々)

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(色とりどりの灯篭が流され、広島の夜はふけていった)

2007年08月05日

ヒロシマの疑問

ヒロシマ原爆についての ? な事などをお寄せください。


当ページへのコメントは受け付けていない為、info@h-s-o.netまでお寄せください。

2007年07月13日

原爆は悪の固まり

笠岡貞江

被爆当時の生活

私は当時、爆心地から3.8キロ地点の広島市江波町に、両親と93歳の祖母と4人で暮らしていました。姉3人は嫁いでおり、小学5年生の弟は広島県双三郡吉舎町のお寺に学童疎開しており、兄は神戸の商船学校に在学中でした。

 私は13歳で女学校1年生でした。しかし、学校の授業も夏休みもなく、作業ばかりの毎日でした。原爆投下の前日まで、爆心地近くの大手町で建物疎開の作業に出ていました。8月6日は作業を休み、家にいました。よく晴れた日でした。朝早く、両親は広島市役所近くの知人の家の建物疎開の手伝いに出かけ、家にいませんでした。警戒警報解除のサイレンを聞いて、もう大丈夫、敵機が来る心配はないと思い、私は朝食の後片付けや食器洗いをした後、洗濯物を庭の物干しに干し終えて、家の中に入りました。

8時15分

 私は、2.5メートル程のガラス窓のある東向きの部屋に向かっていました。突然、目の前のガラス窓一面が、真っ赤、いや日の出の太陽にオレンジ色を混ぜたようなきれいな色になりました。その瞬間ドーンと大きな音がしたと同時にガラスが割れ、粉々になった破片が私に向かって飛んできました。爆風の凄い圧力で後ろに押され、私は一瞬何も分からなくなりました。われに返って頭に手をやると、ヌルリとしました。ガラスで傷をしたためでしたが、痛いとは感じませんでした。早く逃げなくてはと、祖母と一緒に町内会の防空壕に入りました。近所の人もいましたが、何が起きたのか分かりません。不安のまま外に出たとき、建物の瓦が落ち、壁土が落ちて散乱しているのに気付きました。9時を過ぎた頃に街中に出ていた近所のおじさんが戻られましたが、火傷で皮膚が変色し、顔と腕がピンク色になっており、「広島は大変じゃ、ピカーと光ってみんなやられた」と大声で言われました。

両親を失う

 市の中心部に作業に出ていた大人や中学生が臨時救護所になった小学校に収容されていることを聞いて、ますます心配は募りました。親類のおじさんに探しに行ってもらいましたが、火炎のため引き返して来られました。
 神戸にいた兄が帰省の途中、広島駅近くで原爆に遭い、夕方、家に着き、すぐに両親を探しに出ました。夜に、父が大河町の親戚の家に逃れているとの知らせを受け、兄が迎えに行き、大八車に乗せて連れ帰りました。戸板に寝ている姿は生きている人とは思えませんでした。顔は大きく腫れ上がり、着衣は焼かれて、何も着ておらず、身体が真っ黒で、光っていました。声を聞いて父だとわかりました。薬はなく、胡瓜やジャガイモなどをすりおろして、湿布代わりにしました。すぐ乾きましたが、取り替えることもできません。さわったらズルッと黒いところが剥けて下から赤みが出ました。表面だけでなく、内部まで火傷していました。意識はあり、「雑魚場町にいて、キチと一緒に逃れようとしたが、離れてしまった。探してくれ」と妻を案じていました。水を欲しがりましたが、火傷の人に水を飲ますと死ぬと聞いていたため、水道が止まっているなどとごまかしました。酒の好きな人で、蔵の中にビールが大事にしまってあり、「酒でもいいから、飲みたい」と言ったのに飲ませなかったのが今でも、心残りになっています。

 父には、団扇で扇いであげることしかできませんでした。暑いのと傷口にたかる蝿を追い払うためです。傷は化膿し、蛆虫が傷口から出たり入ったりしていました。水の代わりになるものがないかと、畑に取りに行きました。嬉しいことに、トマトが目に入り、急いで籠に入れ、ふと顔を上げたとき、異様な光景が目に入りました。

 身体全体が白くなった人たちが両手を胸の辺りまで上げ、襤褸をぶら下げて、無言で行列して、陸軍病院の方へトボトボと歩いていました。まるで幽霊のようでした。襤褸は火傷で皮がぶら下がったもので、身体が白いのは灰を被って、白く見えたことがあとでわかりました。

 父は行方不明の妻と幼い子供たちのことを心配しながら、8月8日の夜に息を引き取りました。死ぬ人が多いので、火葬場は使えず、海岸の砂浜に穴を掘って、板や木切れを集めて火葬しました。近くで多くの火葬の煙が立ち、異臭が漂っていました。

 兄は母を探しに行きましたが、なかなか見つけることができませんでした。兵隊さんが被爆者を船に乗せ、坂村、似島、宮島などの救護所に運んでいることが分かりました。兄は似島に行って、名簿に母の名前を見つけましたが、既に8日に死亡し、遺体は処理されていました。遺品は小袋に少しのお骨と髪の毛だけでした。父とはぐれて、子どもと年寄りのことを気遣い、家に帰りたかったであろうと心情を察すると今も胸が傷みます。

苦難のその後

 翌年、私は身体のあちこちに吹き出物ができ、右腕に三つも大きな穴が開き、半年以上治らずに困りました。貧血も続きました。両親を無くし、その後の生活は悲惨でした。祖母や兄姉に支えられて生きてきました。就職試験には落ち、お見合いをしても結婚に至らず、被爆が障害になったことは否めません。縁あって被爆者と結婚しましたが、夫は35歳の時、癌で死亡しました。私は原爆を悪の固まりと言っています。

戦争を知らない世代に伝えたい

 原爆のことを思い出すと涙が出てきて、語ると胸に込み上げるものがあります。しかし、犠牲になった人たちの代わりに、生きている私がお役に立てればと思い、証言ビデオを平成12年2月に撮っていただきました。これを機会に小学生らに被爆体験を話すようになり、本年、財団法人広島平和文化センターの証言者にならせていただきました。世界中から核兵器が無くなり、平和が実現されるよう訴えて行きたいと思います。

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これは昭和15年3月、長兄(後列右から3番目)の出征祝いのときに家族で撮った写真です。前列真ん中が祖母。その横が本人(7歳)後ろは三人の姉たち。前列右端が母(似の島で亡くなった。)後列右から二番目が父。(被爆後看病したが8月8日に亡くなる。)右端が兄。小さい男の子は弟です。出征した長兄は戦死しました。

2007年05月29日

朗読劇版 「禎子と千羽鶴」~A Thousand Cranes ~再演決定!

日時 : 6月3日日曜日6時半開演
場所 : 鎌田区民センター第一会議室(東京都世田谷区鎌田3-35-1 → 地図) close map [x]
出演 : ノリコ、小谷真一、山崎陽子、百瀬百華、登坂俊晴、登坂敬晴、黒澤柚菜、佐藤綾花、竹内ひまわり
音楽 : 芳賀一之
チケット : 大人1,000円、子供 500円
Red Cranes が続けてきた「禎子と千羽鶴」が今回は世田谷区のNPO、SAPさんのチャリティーコンサートにて再演が決まりました。素晴らしいピアニストの方のコンサートとの競演です。

今回は4人のアクターと世田谷区の5人の子供達が出演します。そして若きミュージシャン芳賀一之くんがオリジナルの伴奏を付けてくれます。

この公演の収益金は全て、世田谷区の放置自転車をアジアの恵まれない地域へ輸送するための費用となります。客席数に限りがあり、満席の場合は立ち見の可能性もございますがご了承ください。お早めにご予約いただければ、お席を確保できるように努力させていただきます。

皆様、ぜひ、これを機会に地域との演劇コラボレーションを楽しんでください。
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