2007年10月10日

「集団自決(強制集団死)」

高校社会科の教科書の検定問題について、写真家の森住卓氏が現地で詳細な取材をされ、以下の文を送ってくださいました。転載可ということで、HSOのエッセイ欄に紹介させていただきます。
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森住 卓(寄稿)

9月27日から10月13日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしていました。
その時出会った人々のことを記しておきます。

「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村と座間味村は沖縄本島南部の西方海上の慶良間諸島にあります。(集団自決はここだけではありません)
周辺の海は世界有数の透明度を誇っておりダイビングポイントもたくさんあります。この海域は毎年春になると鯨がやって来る、ホエールウオッチングも出来る観光名所です。
那覇からの高速船は戦争体験のない若者たちで一杯でした。彼ら多くは62年前、太平洋戦争末期に起こった、この島々の悲劇を知る者は数少ないのではいでしょうか。

1945年太平洋戦争末期、押し寄せてきた米軍艦船で渡嘉敷村、座間味村の島々の海は埋め尽くされました。船伝いに本島まで渡って行けるようだった、と当時の目撃者の話しです。小さな島は敵艦船に包囲され、連日激しい空襲と艦砲射撃が豪雨のように降り注ぎ、島の地形が変わってしまうほどでした。島にある船は破壊され、逃げるすべもなく島は完全に孤立しました。
「必ず友軍が巻き返しに来る」事を信じて疑うものはいませでした。
「一億玉砕」「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が浸透した魔の戦場と化したのです。「鬼畜米英」とすり込まれた住民は、「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」と信じ込まされ、捕まるより「天皇陛下のため、お国のためにいさぎよく死のう」とすり込まれていました。
米軍が上陸した3月26日(座間味)、27日(渡嘉敷)以後、集団自決(集団強制死)が始まったのです。

「集団自決(強制集団死)」を体験した証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。
自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えられてしまったなら、同じ過ちが繰り返されると。

身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像を絶するものがあります。生き残ったひとびとのインタビューで「体験していない者には本当のところを理解できないですよ」と言われた時に、確かにそうだと思いましたが、同時に「あなたはジャーナリストとしてどのように伝えるのですか?」と問われたのだと思っています。
世界の戦争被害の歴史の中で、これほど残酷で無惨な体験を私は聞いたことがありません。

1945年3月末、米軍が上陸した後、米軍に追い詰められ、日本軍から保護を受けらられなかった住民は「愛する故に愛する我が子を、妻を殺さなければならな」かったのです。「天皇陛下バンザイ」を叫んで。
渡嘉敷では米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が役場職員や青年にひとり2個ずつ手榴弾を配りました。「一発は米軍に投げ、一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品で、多くが爆発しませんでした。
手榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃えさかる炎の中に。最後に残された父親は死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていました。二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。

座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米軍が迫ってきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄からとり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。じっと目をつむったままでした。そのため、妻のどこに刃が当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながら、やがて大量の出血で意識を失って行きました。
押し黙っていた校長は自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。
「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃していました。
飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。

「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想でした。
しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたのです。
「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかを最も劇的な形で現れた事件でした。

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦をはべらせ壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1980年に密かに座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。
住民は自発的に集団自決した」という証言をとるためでした。
元村収入役謙兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏はお酒が大好きでした。そこに目をつけた梅澤元少佐は早朝から酒をすすめ酔わせたのです。酔ったA氏はそれでも「嘘の証言を書くこと」を拒み続けました。
梅澤は「母が住民自決を命令した息子を持って肩身が狭いといっている。母を安心させるために、自決命令は出さなかったという証人になってくれ。この文書に署名してくれ。この文書は母に見せるだけで他に使わない」と約束し事前に用意してきた文書にA氏の印鑑をつかせました。

その5年後神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。そしてこの文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。

深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血のにじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくた97才になるおばあさんが自決現場近くに案内してくれました。しかし、身体が震えて現場までたどり着けませんでした。
インタビューが終わると1時間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。

証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んだ深い傷を思うとき、一度や二度の取材でこの人々の痛みを理解したなどと絶対に言ってはならないと固く思ったのです。
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした。
(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならいと思っています。

2007年07月13日

原爆は悪の固まり

笠岡貞江

被爆当時の生活

私は当時、爆心地から3.8キロ地点の広島市江波町に、両親と93歳の祖母と4人で暮らしていました。姉3人は嫁いでおり、小学5年生の弟は広島県双三郡吉舎町のお寺に学童疎開しており、兄は神戸の商船学校に在学中でした。

 私は13歳で女学校1年生でした。しかし、学校の授業も夏休みもなく、作業ばかりの毎日でした。原爆投下の前日まで、爆心地近くの大手町で建物疎開の作業に出ていました。8月6日は作業を休み、家にいました。よく晴れた日でした。朝早く、両親は広島市役所近くの知人の家の建物疎開の手伝いに出かけ、家にいませんでした。警戒警報解除のサイレンを聞いて、もう大丈夫、敵機が来る心配はないと思い、私は朝食の後片付けや食器洗いをした後、洗濯物を庭の物干しに干し終えて、家の中に入りました。

8時15分

 私は、2.5メートル程のガラス窓のある東向きの部屋に向かっていました。突然、目の前のガラス窓一面が、真っ赤、いや日の出の太陽にオレンジ色を混ぜたようなきれいな色になりました。その瞬間ドーンと大きな音がしたと同時にガラスが割れ、粉々になった破片が私に向かって飛んできました。爆風の凄い圧力で後ろに押され、私は一瞬何も分からなくなりました。われに返って頭に手をやると、ヌルリとしました。ガラスで傷をしたためでしたが、痛いとは感じませんでした。早く逃げなくてはと、祖母と一緒に町内会の防空壕に入りました。近所の人もいましたが、何が起きたのか分かりません。不安のまま外に出たとき、建物の瓦が落ち、壁土が落ちて散乱しているのに気付きました。9時を過ぎた頃に街中に出ていた近所のおじさんが戻られましたが、火傷で皮膚が変色し、顔と腕がピンク色になっており、「広島は大変じゃ、ピカーと光ってみんなやられた」と大声で言われました。

両親を失う

 市の中心部に作業に出ていた大人や中学生が臨時救護所になった小学校に収容されていることを聞いて、ますます心配は募りました。親類のおじさんに探しに行ってもらいましたが、火炎のため引き返して来られました。
 神戸にいた兄が帰省の途中、広島駅近くで原爆に遭い、夕方、家に着き、すぐに両親を探しに出ました。夜に、父が大河町の親戚の家に逃れているとの知らせを受け、兄が迎えに行き、大八車に乗せて連れ帰りました。戸板に寝ている姿は生きている人とは思えませんでした。顔は大きく腫れ上がり、着衣は焼かれて、何も着ておらず、身体が真っ黒で、光っていました。声を聞いて父だとわかりました。薬はなく、胡瓜やジャガイモなどをすりおろして、湿布代わりにしました。すぐ乾きましたが、取り替えることもできません。さわったらズルッと黒いところが剥けて下から赤みが出ました。表面だけでなく、内部まで火傷していました。意識はあり、「雑魚場町にいて、キチと一緒に逃れようとしたが、離れてしまった。探してくれ」と妻を案じていました。水を欲しがりましたが、火傷の人に水を飲ますと死ぬと聞いていたため、水道が止まっているなどとごまかしました。酒の好きな人で、蔵の中にビールが大事にしまってあり、「酒でもいいから、飲みたい」と言ったのに飲ませなかったのが今でも、心残りになっています。

 父には、団扇で扇いであげることしかできませんでした。暑いのと傷口にたかる蝿を追い払うためです。傷は化膿し、蛆虫が傷口から出たり入ったりしていました。水の代わりになるものがないかと、畑に取りに行きました。嬉しいことに、トマトが目に入り、急いで籠に入れ、ふと顔を上げたとき、異様な光景が目に入りました。

 身体全体が白くなった人たちが両手を胸の辺りまで上げ、襤褸をぶら下げて、無言で行列して、陸軍病院の方へトボトボと歩いていました。まるで幽霊のようでした。襤褸は火傷で皮がぶら下がったもので、身体が白いのは灰を被って、白く見えたことがあとでわかりました。

 父は行方不明の妻と幼い子供たちのことを心配しながら、8月8日の夜に息を引き取りました。死ぬ人が多いので、火葬場は使えず、海岸の砂浜に穴を掘って、板や木切れを集めて火葬しました。近くで多くの火葬の煙が立ち、異臭が漂っていました。

 兄は母を探しに行きましたが、なかなか見つけることができませんでした。兵隊さんが被爆者を船に乗せ、坂村、似島、宮島などの救護所に運んでいることが分かりました。兄は似島に行って、名簿に母の名前を見つけましたが、既に8日に死亡し、遺体は処理されていました。遺品は小袋に少しのお骨と髪の毛だけでした。父とはぐれて、子どもと年寄りのことを気遣い、家に帰りたかったであろうと心情を察すると今も胸が傷みます。

苦難のその後

 翌年、私は身体のあちこちに吹き出物ができ、右腕に三つも大きな穴が開き、半年以上治らずに困りました。貧血も続きました。両親を無くし、その後の生活は悲惨でした。祖母や兄姉に支えられて生きてきました。就職試験には落ち、お見合いをしても結婚に至らず、被爆が障害になったことは否めません。縁あって被爆者と結婚しましたが、夫は35歳の時、癌で死亡しました。私は原爆を悪の固まりと言っています。

戦争を知らない世代に伝えたい

 原爆のことを思い出すと涙が出てきて、語ると胸に込み上げるものがあります。しかし、犠牲になった人たちの代わりに、生きている私がお役に立てればと思い、証言ビデオを平成12年2月に撮っていただきました。これを機会に小学生らに被爆体験を話すようになり、本年、財団法人広島平和文化センターの証言者にならせていただきました。世界中から核兵器が無くなり、平和が実現されるよう訴えて行きたいと思います。

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これは昭和15年3月、長兄(後列右から3番目)の出征祝いのときに家族で撮った写真です。前列真ん中が祖母。その横が本人(7歳)後ろは三人の姉たち。前列右端が母(似の島で亡くなった。)後列右から二番目が父。(被爆後看病したが8月8日に亡くなる。)右端が兄。小さい男の子は弟です。出征した長兄は戦死しました。

2007年05月22日

戦争は最大の環境破壊

堀江 壮 (寄稿)

私は4歳10ケ月の時、広島市の西区己斐小学校の近くで被爆した。
2003.7.8.の朝日新聞朝刊によれば、己斐小学校の校庭では当時数千人の人たちが真夏の暑さの中、約1ケ月の間にわたり荼毘にふされたとのこと。私はあの時のすさまじい異臭をけっして忘れることが出来ない。

もっと悲惨な被爆体験をもつ多くの方がおられたので、私は被爆体験を話すことはしなかったが、己斐小の古いロッカーから私のも含めて当時の5・6年生の書いた原爆についての作文が見つかり、2002年8月6日己斐小のピースメモリアルセレモニーに招かれてから私は平和運動を始めた。

振り返ってみると戦後独立以来、広島・長崎はもちろん日本国中で様々な平和運動がおこなわれ、私自身もデモ行進・署名運動・毎年8月6日平和公園で「世界の命=広島の心」の合唱、原爆ドーム前でのアピール等様々な運動に関わってきたが残念ながら効果はなんらあがっていない。長年にわたり世界中からたくさんの政治家・一般市民が広島長崎を訪れその悲惨さは認識しているはずなのに、むしろ最近の世界・日本の動きは以前よりキナ臭くなっている。

原因は世界中で戦争で利益を得ている人があまりにも多すぎることだと思う。もちろん原爆の悲惨さを語り継ぐことは大切なことだが、原爆の悲惨さを訴えたら
・日本は米国の核に傘にはいっているではないか。それなのに反核運動とは?
・貴方の国は私の国をだまし討ちにしたではないか?原爆により100万人の米兵の命が救われた。
・貴方の国の軍隊も中国その他でひどいことをしたではないか?
・不幸にも罪の無い人々が犠牲になったがそれは当時の日本の指導者が悪いせいだ。
こんな反応があったら、どう答えられるだろうか。悲惨さだけを訴えても議論はかみあわない。

私は原爆の悲惨さをアピールする以外に核実験を含めて戦争がいかに環境を破壊しているか、資源を浪費しているかをもっと世界に伝えるべきだと思う。戦争に勝っても負けても、環境の悪化の影響は同じように受けるし、浪費して資源が少なくなればますます国家間の争いは大きくなるだろう。
・世界の環境破壊の原因の30%は戦争に起因する。核汚染の影響は計り知れない。
・米国の最新ジェット戦闘機F22の値段 151億円
・米国は5%の人口で26%の石油を消費しその最大の使用者は米軍
・湾岸戦争では1日1200億円の戦費は使われ、640ケ所の油田が6ケ月にわたり燃やされ立ち上がる黒煙は周辺諸国から太陽を奪い、例年より気温が10度低下した。
・平成16年度広島市の年間予算は5321億円、イージス巡洋艦1隻の値段は1357億円
気をつけていればいくらでも、いかに戦争が人類にとって無駄なことか情報が目につく。

原爆の悲惨さを語り継ぐことは伝言ゲームではないが、その悲惨な実態は経験した者しかわからないし、もう30年すれば被爆体験を話す人はいなくなる。は2人の息子にやられたらやり返せといって育てたが、子供の喧嘩ならまだしも、地球規模で現在のように、やられたらやり返す、やられる前にやることをしていたらどうなるのだろうか。

私はこれからも機会が与えられればいつでもどこでも私自身の被爆体験と破壊力以外の核兵器と通常兵器の違いとまじえて「戦争は最大の環境破壊、限りある資源の無駄づかい」というテーマでお話させていただきたいと思う。

2007年05月13日

「自己責任」を問う

浜井道子

今日本国内では、政治家を初め多くの国民の間で、人質になった三人に対する批判が横行しています。またマスコミなどで双方の意見を戦わせる形で批判するなら民主主義の国として当たり前のことですが、偏った意見だけを報道するようなマスコミもありました。それに加え、非難中傷する匿名のメール、FAX、電話が家族の元や、本人のホームページに殺到したり、あたかも今回の人質事件が自作自演であったかのような今井さんが書いたとされる偽のメールまで流布されました。

自分の命を顧みず、自ら危険なところに入り、人のために働こうとする行為は、賞賛されるべきものであって、決して非難されるべきものではありません。真に非難されるべきは人質をとって自分たちの主張を通そうとした武装グループの行為であり、そうぜざるを得ない状況にイラクの人々を追い詰めてしまったアメリカの行為なのです。(日本もそれに追従しています)

危険だから行くなと言ったのに、勝手に行ったのだから自分が悪いという考えは、自分たちだけ安全なところに身をおいておけば、世界のどこでどんなことが起こっていようと関係ないというのと同じことです。その発想からはクリミア戦争で負傷兵を敵味方なく看護したナイチンゲールは非難される人となり、今も世界の紛争地帯で、危険を顧みず活動している「国境なき医師団」や「AMDA」は勝手に行ったから、何かあっても自己責任だと非難されなくてはなりません。

また実際に戦場で何が起こっているのかを、自らの身を危険にさらしながらも世界に訴え続けようというジャーナリスト精神がなければ、私達は戦場で何が起こっているかの真実を知ることはできません。今までベトナム戦争や旧ユーゴスラビアでの戦争でも、彼らの報道のお陰で私達は戦争のもたらす惨禍と権力者の行為を知ることができました。私達が広島から訴えようとしていることも、まさにそのことです。戦争の現実を直視することなく、戦争を語ることはできません。

アメリカのパウエル国務長官も「よりよい目的のために自ら危険をおかした日本人がいたことを私はうれしく思う。三人の行為を日本人は誇りに思うべきです」と述べています。またフランスのルモンド紙は「事件は、外国まで人助けに行こうという世代が日本に育っていることを世界に示した」として、「無謀で無責任」と批判されている元人質を弁護しています。

私達は自分たちにできないような彼らの勇気ある行動を誇りに思い、安全なところに身を置く者として、後方から彼らをバックアップしなければならない立場にいるのではないでしょうか?  

原爆の図 丸木美術館

浜井道子

丸木位里・俊夫妻の描いた作品を展示する丸木美術館には、開館当初から一度は訪れてみたいと思っていた。この夏(2006年)、運よく友人二人と訪れる機会を得ることができた。これまでも広島市で行われた展覧会で、数部の作品を見たことはあるが、15部すべてを見たのは今回がはじめてである。

丸木位里氏は原爆投下後3日目に、俊氏は一週間後に広島に入ったということだ。そこに描かれている被爆者は何百人もいる。そのひとりひとりがあたかも実存したひとりひとりを写実したかのようにリアルである。その中のたったひとりを見るだけでも、心が耐えがたく重くなり、その形相から痛みが、苦しみが見ている私に突き刺さってくる。

そこに描かれてかれているたったひとりの被爆者を見ただけで、このような重い気持ちにさせるこれらの絵を、一人ひとりデッサンし、あのような大きなキャンバスに何百人と描いていく時、丸木夫妻はどれほどの勇気を必要としたのだろうか・・・。まず私の脳裏をかすめたのはそんな疑問だった。それは重苦しすぎる作業であったに違いない。

それでも夫妻の思いを受け止めたいと、丁寧に作品を見続けていくうちに、ふと、これらの絵に描かれている、灼熱に焼かれ、放射能に犯されながら無念の思いで亡くなっていった人々の息遣いのようなものを感じた。もしかしたら丸木夫妻は凄まじい形相で生を終えようとしている人びとをキャンバスに描くことで、彼らに生を与え、語らしめているのではないか。

そこにいる被爆者ひとりひとりが広島・長崎で無言のうちに亡くなられた被爆者の代弁者なのである。丸木美術館では被爆者の声なき声が聞こえてきた。

ノーベル平和賞受賞者広島へ

人間の英知でこそ平和は実現される

浜井道子

去る11月1~2日、ノーベル平和賞受賞者3人を招き、広島市中区アステールプラザで、広島国際平和会議2006が開催された。招かれたのは、現在インドに亡命中のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ法王、南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離)廃絶運動の中心となられたデズモンド・ムピロ・ツツ大主教、北アイルランドでカトリック教徒とプロテスタント教徒との和解に尽力されたベティ・ウィリアムズさんの3人だ。

会議は第1セッションでダライ・ラマ法王が「普遍的責任とは何か」と題して、講演された。第2セッションでベティ・ウィリアムズさんが「子どもたちへの思いやり」と題して、第3セッションでツツ大主教が「和解、そして平和構築」と題してそれぞれ基調演説に臨んだ。第4セッションで全体のまとめがなされた。

私が参加したのは、第1セッションと第2セッション、そして第4の全体会議だった。しかし、幸いにも会議の後、すべてのセッションのDVDを見る機会を得て、それぞれの基調講演をゆっくり拝聴させていただいた。

すべての講演は、世界が抱える難しい問題に対し、示唆に富んだものであった。中でも私の心に最も響いてきたのは、ツツ大主教の言葉であった。「人間と人間であっても、国と国であっても、加害者が罪を認め、謝り、そして被害者がそれを許すというだけでは、和解と平和の構築は達成することはできない。一時的には和解できるかもしれない。しかし必ず過去を繰り返すことになる。加害者は謝った上で、自分が行ったことに対する償いをしなければならない」というものだ。

それは日本と中国・韓国の間で繰り返される「過去を思い出せ!」「もう何度も謝った!」という論争に1つの解決の糸口を見いだしてくれたように思えた。第2次世界大戦で日本は、アジアに大変大きな被害をもたらした。そのことは、誰でも認めるところである。そして政府も村山談話を踏襲するかたちで、謝罪を繰り返している。中には政府見解とはずれたことを言っては職を辞している政治家もいるが、表向きは加害者としての罪を認め、謝罪している。そして被害者側の政府も日本の過去を、「軍国主義がもたらしたもの」として、許すといった内容の発言をしている。しかしそこから先の償いという点ではどうだろうか。日本人は被害を与えた人びとに、本当の補償をしてきたであろうか。

ツツ大主教は非常に分かりやすい例を用いて説明された。「もしある人がペンを盗んだとしよう。『ごめんなさい。もうしません』と謝り、『いいよ』と許される。しかしもし盗んだペンを返さなければ、あるいは弁償しなければ、被害者は心から加害者を許せるだろうか」と。

南アフリカではアパルトヘイト廃止後、それまでの厳しい制度のもと肉体的・経済的そして精神的にも差別され、抑圧を受けてきた黒人たちは、為政者であった白人たちに対し、「真実和解委員会」を設け、厳しく過去を断罪した。しかしそれは決して加害者に対する報復ではなかった。彼の言葉を借りれば、「報復の司法」ではなく、「回復の司法」だったのである。

「私たちはあなた方を許します。でも罪は追求します。そしてその償いはしてください」それが南アフリカで選択した道であり、アパルトヘイト廃止後、社会の混乱が予想されていたにもかかわらず、今にいたるまで大きな混乱は起きていない理由だと言うのだ。

被害を受けたものが報復すると、そこには新たな憎しみが生まれ、報復が繰り返される。それはイスラエル・パレスチナ、アフガニスタン、旧ユーゴスラビア……世界のどこでも起きている。つまり平和を構築するためには、報復ではなく、過去から目をそらさず、それを誠実に受け止めて反省し、その償いをすること以外に真の和解はないのだということだ。

そろそろ日本人をはじめ、世界の人びとは人間に与えられた英知を持って、近隣の諸国や異教徒と共存していく道を考えるべき時代にきているのではないだろうか。

ダライ・ラマ法王は言われた。「人間にはほかの生き物にはない知性が備わっている。知性の使い方によっては、環境を破壊し、人間の殺りくにつながる。しかし同じ英知を使って紛争を終わらせ、飢えをなくすこともできる」と。