2007年06月27日

3 ミャンマー編

ミャンマーからの風

 1997年7月、関西在住の友人門田紀子さんに案内されて、ミャンマーから神学校の副校長・Aさんが来広されたので広島YWCAで講演を依頼した。軍事政権下なので、国外での言動がチェックされる恐れがあるから、匿名で語るのが条件であった。

 以下は、Aさん講話。

“ミャンマー全土においては仏教の僧侶は特別扱いされている。と言っても、彼らは托鉢をして自活しなくてはならない。Aさんが住む地域メイミョは昔の首都マンダレー北方の高地にある。首都ヤンゴンから遠く離れていて、良くも悪くも行政が行き届かない。そのうえ、かつてイギリス軍の基地があったからキリスト教徒が多く、英語が通じる人がいる。一般に市民は貧しい。生活物資は豊富に市場に出回っているが、肉は贅沢品だし、内陸部なので魚介類は入手困難だから、蛋白質不足によるクル病に罹る人が多い。学生たちは文房具にも事欠いているが、現状を抜け出したい意欲があるから向学心が強い。”
 Aさんの講話の後、会場から対日感情について質問があった。

「戦時中、日本軍が略奪・強姦・殺戮をしたので、反日感情を持っている老年層が居ますが、若年層は、職のない人が多いので、日本を好きではないが出稼ぎに行く国として憧れています。教育者の私は、公正な世界観を持ちたいと心がけています。核兵器で破壊されたヒロシマを自分の目で確かめて、人類にとって何が課題かを学生たちに伝えたいと思っています」と、言われた。

 原爆資料館を回っているときも、平和公園にある数々の碑の前でも、彼女は何度も立ち止まり、両手を胸元に合わせて祈った。涙が頬を伝わっていた。さらに「啓子さん、被爆したのに、よく生きていましたね。亡くなった人の無念さを代弁してください」と、私の肩を抱いてくださった。

 Aさんが風のように去った後、YWCAで募金活動が始まり、翌年の春、募金と日用品を届けるために、紀子さんと私がAさんの学校に届けることになった。

 Aさんから、学生たちに被爆体験を語って欲しいと便りがあった。紀子さんが私の原爆体験記を英語に訳してくださった。英訳なった体験記を声に出して練習をするのが私の日課になった。
 それが、その後の私の平和行脚の一歩目になろうとは、神のみの知ることであった。

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(原爆資料館には多数の外国人の姿が絶えません)

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