2011年10月07日

31 ドイツ編2

 ヒロシマの爆心から東南380メートルにあった日本銀行は、大理石と鉄筋コンクリート三階建てで壁の厚みは40~70センチある頑丈な建物だった。午前9時の開店前だったことも幸いして、シャッターを開けていた三階だけが爆風と炎に翻弄された。
 現在、その建物は広島市に移譲されて、使途が論議されているが、当面は個人や団体の展示会や催し物に使用されている。
 01年7月、そこで「世界の被爆者展」が催されていた。痩せぎすの青年が異様なまでの熱心さで見入っているのに気がついた私は彼に話しかけた。彼はドイツのミュンヘン大学の医学生イーカット・マティと名乗り、夏休みを利用して広島大学原爆放射線医学研究所で学習していると言われた。
 私も被爆者である自分を語り、さらにミュンヘンに行ったときに支庁舎の仕掛け時計を見損なったと話して、互いに束の間の会話を楽しんで別れた。
 数日後、ワールドフレンドシップセンターから電話があって、この秋、ミュンヘン大学のIPPNW (核戦争防止国際医師会議)に属している医学生たちが研修会をするので、自費でドイツに来てくれる被爆者を探している。啓子さんがスウェーデンに行くって言っていたから、帰り道に寄って欲しいと言われた。何と、依頼主はイーカットさんだった。
 私は、かねてからミュンヘン郊外のダッハウを尋ねたいと思っていたから、迷わず「行きます」と返答した。
 それが実現した11月16日は霙の降りしきる厳しい寒さであった。ユダヤ人収容所だった広大な敷地の周囲は鉄条網が張り巡らせてあった。博物館を見終わって外に出ると、更地の向こう側にコンクリート壁の建物があった。恐る恐る入って行くと、天井に毒ガスを噴出させた穴が何個もあった。数えきれないユダヤ人の死を想起させるに充分だった。音声ガイドの声が残響となって響き、それが寂寥感をいや増した。
 その夜、私はミュンヘン大学で被爆体験を語った。打上げは名だたるビールで盛り上がった。話題はもっぱら核問題だったのはさすがである。
 彼らは口々に「私たちはヒロシマを伝えますが、啓子さんもダッハウを伝えてください」と言われた。彼らと別れた後、興奮していた私は、電車を乗り過ごしてしまった。雪の降りしきる無人駅で心身ともに凍りつくような目にあった。


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(ミュンヘンの医学生と交歓)

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(ミュンヘンの医学生へ)

32 スウェーデン編4-1

ヨトボイの日本人

 02年10月、ヨーテボリの教会で被爆体験を語った時、初めて富美子ヨハンソンさんに出会った。「日本人の私がヒロシマを深く知らないのを恥ずかしく思います。次回はスウェーデンに住んでいる日本人のために被爆体験を語ってください」と言われた。
 富美子さんが実家の静岡で墓参を済ませ、我家に来て下さったのは03年1月だった。私たちは笠間市の陶芸団地、日動美術館、春風萬里荘などを巡りながら互いの身の上を語り合った。私は彼女の心に第五福竜丸事件が深く関わっているのを知った。
 03年10月、彼女が属している教会で開かれた日本人の集会は通訳不要が何より私を安心させた。聴衆の殆どが女性だったが、中年の男性を「ヨーテボリ大学の横田宗隆先生」と富美子さんに紹介された。彼の繊細な眼差しが何故か印象に残った。
 帰国して間もなく、富美子さんから、来年もヨーテボリ周辺の学識経験者や平和団体に呼びかけて、集会を用意したいと連絡があった。次回はスウェーデン人だからとヨーディス・アンデルソンさんに通訳をお願いしたとも言われた。
 04年の開催日は夏休み中なので、中学1年の孫を同行することにした。彼は佐々木サダコ物語の英語訳をリーフレットにした。千代紙で折った鶴も用意した。
 集会当日、孫は参加者にリーフレットと折鶴を配って歩いた。彼は被爆3世としての重荷を背負ったかも知れないが、黙々として私のすることを支援してくれた。
 05年3月、もう1人の孫を伴ってスウェーデン旅行をした。ストックホルム、カールスコーガを経てヨーテボリに着いた時、富美子さんに電話をしたら「横田宗隆さんの仕事場に行きましょう」と誘われた。彼がパイプオルガン製作者だと知ったのは、その時だった。鉛や錫を配合して大小のパイプを手作りする工程や音の響きについて語る彼は、まるで幼子のようだった。天井の高い建物の中に完成したばかりのパイプオルガンがあった。私たちのために外さないでいたという梯子がオルガンの背面に立てかけてあった。孫は梯子を駆け上がって歓声を上げた。私も孫の後に続いた。大小のパイプが林立する中を伝い歩きして馥郁たる木の香に酔った。彼の指先からバッハの曲が流れ始めると、私たちには至福の時がやってきた。
 05年10月26日号、ニューズウイーク誌「世界が尊敬する日本人・百人」のトップに彼が登壇していた。「芸術が世界平和実現の一端を担います」と言っていた彼の声が、私の耳に蘇ってくる。

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富美子ヨハンソンさん(左)

33 スウェーデン編4-2

官意と民意

03年9月4日、スウェーデンの西海岸ヨーテボリの空港に着くと、映画スターでもファッションモデルでもなさそうな、知的な美しさを湛えた女性のポスターが目に付いた。持ち前の好奇心で、ヨーディス・アンデルソンさんに訊ねた。
 1995年、スウェーデンはEU(欧州連合)に加盟。2002年、共通のユーロ通貨になったが、スウエーデンはクローネを維持してきた。時が経つにつれて他のEU加盟国に倣ってユーロにする案が政府側から出された。その急先鋒がポスターの女性アンナ・リンダ外相である。その成否を問う国民投票が14日に行われるが、世論は現状維持を求めていると説明された。
 例年の如くに始まった被爆証言のプログラムをこなしている間にも、国民投票のことが絶えず話題になっていた。
 アンナ・リンダ外相は国民的アイドルで、次期首相との呼び声が高いそうである。
国の方針で、誰にでも福祉の手を差し伸べるから難民に税金を持って行かれてしまうとか、高い税金を払っているのに市民に還元されていないなどと、人々は、口角泡を飛ばして賛否を論じ合っていた。
「通貨がユーロになったらEU加盟国の中でも力のある国だけが徳をする」とまで言い出す始末なので、「それって、戦争の引き金になりそうね」と言えば「そうさ、戦争だよ。一触即発だよ」とも言われた。
 10日夕刻、テレビ画面が突然変わって「アンナ・リンダ外相が刺されました」と、アナウンサーが絶叫した。その夜のうちに彼女のポスターが街角から消えた。
 11日昼下がり、あちこちでスウェーデンの半旗を見た。その時からテレビもラジオも彼女の追悼と、犯人探しを延々と報道した。14日、国民投票の答えはノーと出た。
 とんでもない歴史を刻んだ渦中に居合わせて戸惑いの日々だったが、被爆体験を語る機会は例年に劣らない回数だった。ストックホルム近郊ニクバン在住のグスタフソン夫妻が「長年、戦争をしていないスウェーデンだからと言って、この先は、どうなるか分からない」と、各地の学校や教会に被爆証言を聞きなさいと、強力に売り込んで居られたからだった。どの会場も「核戦争は意図的には起こらないだろうが、核兵器は廃絶しない限り災いの種」と、発言されて熱気があった。
 19日、私にとって久々の休日がとれたので、アンナ・リンダ外相の葬儀を見に行った。弔問に訪れた各国の要人を警護する様は、まさに、一触即発の感があった。

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(アンナ・リンダ外相の追悼番組)

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(スウェーデン紙幣)

34 スウェーデン編4-3

千人の若者たちへ

 02年10月、スウェーデン有数の工業都市ボーラスの学校で被爆証言をした際、元貿易会社員のヤン・スメドゥミア氏に出会った。仕事で何度も日本に行ったが、ヒロシマのことは知らなかったそうで、多くの若者たちにも私の体験を聞かせたいと言われた。その時は、宮本慶子さんが通訳をしてくれたから、日本食や温泉などの愉快な話で会話も弾んだ。
 私たちが帰国して2ヶ月も経ったころ、慶子さんを通じてメールを貰った。
 翌年10月、ストックホルムで、教育界・経済界の支援で若者1000人の研修会をするから、被爆証言をするようにとの要請だったが、催しの詳細が伝わってこないままに時間が過ぎた。ヨーディス・アンデルソンさんからも、通訳を頼まれたが、それ以外の情報が入ってこないと言ってきた。私はヨーテボリ周辺の教会や学校で被爆体験を語るのを約束していたから、予定通り9月3日に出発してヨーテボリに向かった。
 この旅では「日本では憲法を変えようとする動きがあるようだが、人類にとって最も崇高な理念を謳った憲法なのに変える必要があるのか」と詰問する人が少なくなかったのが、特筆すべきことだった。
 若者の研修会は、マリアンネ・エデュストロムさんという初老の女性が主宰者だった。内臓の各部を癌で冒されている彼女は、若者たちに命の大切さを考えさせたいと、一念発起して企画したと述べられた。連絡が途絶えたのは、ひとえに彼女の忙しさからだったと分かり、笑顔でハグできた。
 20日午後3時、ストックホルム郊外ブロットビィ。過疎化が進んで廃屋になった劇場を借り切っての大イベントは幕を開けた。それから24時間、ぶっ続けで多彩な行事が用意されていた。ダンス、無言劇、ジャズバンド、老神父と若い政治家の対論、人気オペラ歌手も彼の主宰するコーラスを率いて参加していた。プログラムは次から次へと進行していった。
 午後4時、私の被爆証言の番になった。戸外でたむろしていた若者たちがどっと入ってきた。会場の騒がしさは5分もしない内に静かになった。照明を暗くしてあるが、5列目くらいは私の目に入ってくる。涙を流して聞いている少女たちを抱きしめたいと思いながら、私は語り続けた。再会を約していたヤン・スメドゥミア氏とは、連絡も取れないままだった。


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(原爆写真展も)

35 スウェーデン編4-4

ノーベル終焉の地へ

 04年夏、牛久教会の吉田牧師の紹介で、スウェーデンのカールスコーガから牛久の実家に帰省されている恵ルンドさんに出会った。恵さんが属して居られるFNコミューン(スウエーデンの国連下部組織)では第二次世界大戦終結60年目の国連デーに世界平和をテーマにした催し物をするそうだ。その構想を聞いているうちに、私も参加したいと申し出るまでに気合が入った。
 間もなく広島を訪れたルンド一家は8月6日の平和祈念式典に参列。反核会議、被爆体験を聞く会、国際交流の場などに参加された。私が紹介した広島の友人たちからアドバイスを受けて精力的に資料の収集もなさった。スウェーデンに帰られた後はメールが行き交い、催し物の内容が次第に膨れていった。
 息子シモン君が在学している高校ではミニ国連会議をすることになり、彼が責任者になった。しかも、ヒロシマ学習の成果を発表するという。私は国連デーの練習を兼ねてその会議で被爆体験を語ることにした。
 05年3月、孫にも体験させたいので、彼の小学校卒業式が済むのを待って出発した。
 森と湖が点在するカールスコーガは落ち着いた気品のある町だった。アルフレッド・ノーベル終焉の地であり、ノーベル賞が授与されるストックホルムとオスロとを結ぶ中間点にあることも初めて知った。
 最初の晩餐はルンド家の親しい狩人が仕留めたというエルク(ヘラ鹿)料理だった。今までに味わったことのない食材に食いしん棒の舌が喜んだ。
 ミニ国連会議の会場はヒロシマの資料が所狭しと展示されていた。原爆ドームのレプリカはルンド一家が手作りしたものだと言われて、思わず感嘆の声をあげた。
 テレビカメラが待機していた。私は被爆体験と核廃絶の願いを語るために会議場の中央に敷かれた赤い絨毯を進んで壇上に立った。見渡すと、国連加入国の民族衣装を着た生徒たちが居並んでいた。彼らは、1年前から担当した国の歴史・地理・国情などを事前学習し、それぞれの国の立場から活発なディべートをした。
 翌日の新聞に、シモン君の活躍ぶりと、私を取材した記事が掲載された。
 カールスコーガを去る朝、残雪の中にラッパ水仙を見つけた。復活祭がやってきますと告げているかのようだった。


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(原爆ドーム レプリカ)

36 アメリカ編4-1

世界平和ミッション

 中国新聞社と広島国際文化財団の共催「世界平和ミッション」は、04年5月の南アフリカを皮切りに世界各地に派遣された。05年4月半ば、最終回のアメリカ班に急病人が出たので補欠要員としてオハイオ州コロンバスで合流して欲しいと要請された。戸惑っている時間が与えられない。娘に相談すると「アメリカこそ最大の核大国だからねぇ、身体具合さえいいなら、行く価値があるかもね」と言うので、決心がついた。
 4月15日、1人旅は嫌いじゃないけれど緊張感を覚えつつ成田を発って12時間。7年振りのシカゴのオヘア国際空港に着いた。9・11同時多発テロ事件以来、厳重なセキュリティーチェックをしていると知っていたが、指紋を採られ、写真を撮られ、出入国の書類も細部にわたって記入しなくてはならない。どうにか自力で乗り継いでコロンバスに着いた。
 ホテルで待つこと2日。やっと先発グループに合流したが、彼らはすでにチームワークが出来上がっていたから、私の入る込む余地がない。
 18日、クエーカー教徒が設立したウイルミントン大学に向かった。私は、98年9月、広島に本拠を持つワールドフレンドシップセンターから派遣されて訪れていたので、ミッションの初仕事としては気負いせずに臨めると思っていた。
 まず、訪問したのは大学に付設されているピースリソースセンターだった。そこには長身のジェームス・ボランド氏の姿があった。「やぁ、啓子じゃないか。驚いたよ」と、腰をかがめてハグして下さった。もっと驚いたのはミッションの面々だった。ジェームス氏が私の着物姿の写真を持ち出して来られた。一斉に皆の視線が集中した。その時、私は世界平和ミッションの一員になれたと感じた。
 このセンターは、ワールドフレンドシップセンターの設立に貢献されたバーバラ・レイノルズ女史によって75年に創設されたものである。ヒロシマ・ナガサキ文献を収集していて、対外的に資料の提供をしているので、大学人のみならず一般社会からも評価されている存在である。
 ちなみに、バーバラ女史は、64年、広島・長崎の被爆者、学者を伴って欧米を行脚され、被爆の実相を広く認識させる「世界平和巡礼」の祖となった人である。
 ダニエル・ディビアシオ学長からは、とても興味深い話を聞いた。クエーカー教徒の建物は入口が男性と女性が別々になっています。その理由は差別ではなく、女性が自由になるためであると。・・・と言うことは、男性が利己的存在であると認めているということなのだろうか。
 その夜、コロンバスのメノナイト教会で被爆証言をした。率先してお世話くださったのは女性群だった。


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ジェームス・ボランド氏と(中国新聞提供)

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ピースリソースセンターにて(中国新聞提供)

37 アメリカ編4-2

核軍縮に取り組む人たち

05年4月19日、世界平和ミッション一行はワシントンDCに移動した。
 翌20日、アメリカ国務省・多国間核問題室長代行のリンダ・ガリーニ女史をホテルの会議室に迎えた。彼女はアメリカ政府に30年間勤続、核関係のベテランである。開口一番「昨日、広島に行った友人からヒロシマの話を聞きました。人間は忘れやすいです。しかも、直面している問題に気を取られ易いから、貴方がたの行為は良いことです」と挨拶されたが、目は笑っていない。
 7回目にあたる今回のNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議には150カ国以上が参加するだろう。過去5年間の推移をみると、イラン・イラク・北朝鮮・リビアなどが意図的に核を持ちたがっている。04年1月、パキスタンのカーン博士周辺による「核の闇市場」が明るみに出たではないか。その監視のためにはIAEA(国際原子力機関)による査察を強化しなくてはならない。アメリカは平和的な核軍縮、核の輸出入の管理の重要性を課題としています。核を悪用されないように、拡散しないように監視するために、アメリカが核保有をしているのは正当であると述べられた。
 私は「ヒロシマ・ナガサキで何が起こったかを念頭に置いてご活躍ください。広島には、地球上に核兵器が無くなったら消すことになっている『平和の灯』があります。せめて、私の孫が生きているうちに消えるのを願っています」と発言した。彼女は、アメリカは世界に監視の目を向けていると繰返すだけだった。
 25日、1997年に発足した「軍縮協会」のダレル・キンボール氏から見解を聞く機会を得た。彼は、若い人が歴史で起こった重要なことを知らないのを憂慮していると前置きして、アメリカの核兵器の現状について、次のように話された。確かに、今のアメリカは配備中の核弾頭を減らそうとしているが、外した弾頭を再配備できる状態にしているのが現状である。アメリカの核兵器備蓄が、他の保有国並みになるなら、国際間の話し合いが出来るだろうとも言われた。核兵器は決して使われてはならないもので、抑止力としてのみあるべきです。テロや化学兵器がターゲットになってもいけません。この協会は、核実験の抑制、兵器削減を求めていますが、残念ながらブッシュ大統領は私どもの進言を受けとめていませんとも言われた。 
 1997年、原水禁の催しで広島を訪れたという彼は、私たちミッションの主旨に賛辞を述べ、加えて、日本の景色、食べ物、日本人の気質は素晴らしいと、アメリカ人らしいリップサービスを忘れない人だった。この協会の進言がブッシュ政権に影響を及ぼすことが実現する日が来るのだろうか。
さらに、ブッシュ政権が終焉を迎えたとて、アメリカ自体が進路変更をするだろうか。私は果てしない疑念を抱いたままである。


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ガリーニ女史(左側)と(中国新聞提供)

38 アメリカ編4-3

エノラ・ゲイ

05年4月21日、ワシントンDC郊外にあるスミソニアン航空宇宙博物館新館に行った。厳しいセキュリティーチェックを受けなくてはならないのに、館内は写真撮影が許されている。
 とてつもなく天井が高くて広い。アメリカが誇る各種の戦闘機がこれ見よがしに展示されている。
中でも広島に原爆投下した際に使用されたボーイング社製のB29攻撃機「エノラ・ゲイ」は他を圧する巨体である。1万メートルの超上空飛行が可能なので低性能の日本軍機から攻撃を受ける筈もない。銀白色の機体に太陽光を反射させ、目を射るように演出して敵を威嚇したそうだ。
 原爆投下を目撃した人たちが「キラリと光ったB29が落下傘のような物を落とした」と証言しているのを思い出す。
 被爆時、私は退避所の内部に居たので機体を見るのは初めてだった。ポール・ティベツ機長の母の名を付けたこの母胎が悪魔の子「リトルボーイ」(広島へ投下された原爆のあだ名)を孕んで広島上空に飛来し、原子爆弾を初産したのだと思ったとたん「ヒロシマの仇」との言葉が私の口からこぼれた。ちなみに長崎への攻撃機のあだ名はボックスカーであり、原爆のあだ名はファットマンである。
 エノラ・ゲイには簡単な説明文が掲げてあるが、原爆投下についての記述はない。次から次へと団体客が押し寄せて来た。誰もが「第二次世界大戦時、もっとも精鋭の戦闘機がB29 でした。このエノラ・ゲイの活躍で世界が平和になりました」と、ガイドの説明を聞いては感嘆の声を挙げ、尊敬の眼差しでエノラ・ゲイを見つめていた。見学者の群に近付くと「日本人が…」という顔つきの視線を浴びた。
 このミッションの旅で、私が先発メンバーと合流したのはオハイオ州の州都コロンバスだった。庁舎の庭には戦没兵士に捧げるモニュメントがずらりと並んでいた。敗戦を経験したことのないアメリカにも、自国のために命を捧げた人たちはおびただしい。
 数年前、ティベツ機長が第二次世界大戦時の英雄として、各地を遊説している様子がテレビドキュメントとして放送された。この街のどこかにティベツが住んでいる。街路樹のリンゴの花の白さが目にしみた。原爆投下後、エノラ・ゲイの搭乗員は、懺悔の人生か、英雄の人生かの選択肢があった。そして、ティベツ機長は英雄の道を選んだ・・・と言うより、アメリカの体制が彼を英雄に仕立てなくてはならなかったのだろう。博物館の売店で、最も売れるのはエノラ・ゲイのレプリカと、エノラ・ゲイの機体と共に撮影したティベツ直筆サイン入りの写真だそうだ。
 ティベツもまた、体制側の都合に翻弄された悲劇の人であると、私は少しばかり同情している。


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(エノラ ゲイ)

39 アメリカ編4-4

アメリカン大学の姿勢

 第二次世界大戦終焉から50年、スミソニアン航空博物館が原爆展をしようとしたとき、退役軍人たちの反対にあって中止になった。と同時に、館長が退職せざるを得なくなった。
 時を同じくしてアメリカに留学中だった被爆二世の直野章子(なおのあきこ)さんは、「ヒロシマ・アメリカ――原爆展をめぐって」(渓水社)の中に、ワシントンDCのアメリカン大学構内で、自らの手で原爆展を企画し、成功させた軌跡を著して居られる。それを読んだ私はどんなに勇気を得たことか。
 私がワシントンDCにアメリカン大学ありと知ったのは、その時であった。ヒロシマ・ナガサキと聞いただけでアレルギー反応を起こすアメリカ社会にあって、日本人の1留学生に原爆展のチャンスを与えるとは、凄い大学としか言いようがない。
 02年4月、私は「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」の一員として、そこを訪れた。
 その29日夕刻、公開フォーラムに参加しようとする学生や社会人たちがキャンパス目指して集ってきた。同時中継をする現地テレビのスタッフの動きも次第に忙しそうになってきた。
 7時、フォーラム開始。パネラーは日英の核問題、国際問題の専門家たち。私は、その中で被爆証言をした。スポットライトを浴びた私は、少なからず緊張して英語に訳してあった原稿を読んだ。全プログラムが終わったとき、パネラーの1人1人から握手を求められた。カメラマンからも満足そうなウインクを貰った。使節団の仲間たちも舞台から降りた私を機嫌よく迎えてくれた。
 2度目の訪問が実現するとは思いもよらないことだった。世界平和ミッションの企画は、核問題を真剣に取り組む姿勢を保っているアメリカン大学を素通りするようなものではなかった。
 05年4月22日。キャンパスに入ると懐かしさがこみ上げてきた。行きかう学生たちが気軽に遠来の客に声をかけてくれた。見覚えのあるクズニック教授が私たちを出迎えて下さった。早々に案内されたのは50人くらいの学生たちが待っている教室だった。学生たちは私たちのプレゼンテーションを真剣に聞いてくれた。そして、各地に起こっている紛争について、大量破壊兵器について、活発なディベートを繰り広げた。残念ながら私のヒアリング能力は充分ではない。教授の表情から察するしかない。「来年のヒロシマデーには学生たちと広島に行きますよ。また会いたいです」と、終業のときに言われた。別れ際、明後日も被爆者が来訪されますので忙しいですと、教授が言われた。真摯に被爆者の証言を聞き、核廃絶への道を辿ろうとする人がいるのもアメリカである。
 ちなみに、直野章子さんは今、九州大学大学院助教授を務めるかたわら、ヒロシマと深く関わり、執筆、講演・研究と、多忙を極めて居られると聞く。


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(ワシントンDC下町)

40 アメリカ編4-5

アメリカのシンクタンク

 モントレー国際大学院のワシントン支部はポトマック河畔にあった。
 05年4月22日昼下がり、最上階の広間から見えるのは巨大なビル群と今を盛りに咲いている八重桜の並木である。周辺に詳しい人の説明によると、向かいはウオーターゲート事件のあったビルだそうだ。なるほど、ホワイトハウスから1キロも離れていないなと、歴史の検証をしている気分になった。
 ローレンス・シャイマン博士は、急ぎ足に広間に入って来られるや「私はIAEA(国際原子力機構・、エルパラダイ事務総長は2005年ノーベル平和賞受賞)の特別顧問を務めていました。日本との関りは深いですよ、平和をテーマに5度訪れました。私のことはアメリカのシンクタンクと考えて下さっていいです」と自己紹介された。フォード・カーター・クリントン各大統領在任中、核兵器、軍備の分野で政府の実務を担当した実績がそう言わしめるのであろう。
 中国新聞の岡田記者が「ブッシュ政権における核政策について教えてください」「アメリカが本当に削減をしているとは思えないのですが…」等々、立て続けに質問を発した。
「世界情勢の推移によって、核保有の状態が変化していった」と答えた博士は、NPT(核不拡散条約)再検討会議は核保有国が非核保有国に核兵器を使用しないことを宣言することであるから、この会議は重要だと考えていると言われた。一方、核保有国が核廃絶をしても北朝鮮のことは解決しないだろうし、インドとパキスタンに対しては融和の橋渡しをする必要があるだろう。イスラエルは近隣諸国とのバランスのために核保有を望むだろう。最も危惧していることは、核が漏れないようにしてテロ組織に核兵器製造をさせないことである。アメリカ市民は大統領が核兵器を使用するとは思っていない。外交上の力を持つためと理解している」と返答された。「1945年、2個しかなかった原爆を現実に使いましたね。現在、使える小型核兵器開発をしていると聞いていますが、その目的は何ですか」と、岡田記者の質問は続いた。博士は「中国の急成長も脅威であり、将来が不透明である。ブッシュ政権は核兵器を小型化して通常兵器として変身させる方向に向かっている。それは抑止を現実的にするためであり、使用目的ではない。アメリカは地域的カンファレンスをホストとして務めるべきと思っている」と、返答された。
 最後になって私に発言の機会が与えられた。現在の博士が政権に関与する立場でないのは分かっているが「アメリカ大統領も、側近のシンクタンクの人々も、アメリカが世界を制しているという前提であることが疑問です。しかし、そう自認しているなら、アメリカが率先して核廃絶の道を取るべきです」と、言わせて貰った。

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(ワシントンメモリアル)

41 アメリカ編4-06

核保有を憂う人たち
 アメリカ内部にも核兵器廃絶、核の諸問題、軍縮や反戦運動に取り組んでいる人たちが大勢いる。 
彼らは核保有国に属しているから、私たちよりも心を痛めているのが共通していた。
 05年4月22日、カルフォルニアに本部を持つ「核時代平和財団」のオフィスにカーラ・オング女史を訪ねた。この財団は、ワシントンDCに活動拠点を移したばかりで、私たちが最初の訪問客だそうである。
 オング女史は「残念ながら、ブッシュ政権はNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議には関心がないみたいです。外した核弾頭はテキサスに存在しています。アメリカの核予算は年間400億ドル(4兆2千億円)です。核兵器のリサーチのためとか、核弾頭のライフワークを長くするとか…要するに、新しい機能にするために遣われているのです。アメリカ市民を教育して、回り回って市民たちの生活が脅かされると自覚させ、これらの問題に目をむけさせなくては核軍縮は実現しないと思います。核を放棄すればアメリカが弱体化すると危惧する市民も多いので、私たちは、アメリカの軍は他国より強大だから充分に国防が成り立つと説得しています。不確認のテロリストに核で威嚇しても解決にはなりません」と、20代の若さからくる熱い語りだった。
 翌23日は、02年3月、アメリカ政府の機密文書「核態勢の見直し(NPR)」をホームページ上で公開したグローバル・セキュリティー代表のジョン・パイク氏のオフィスを訪ねた。NPRには、アメリカを危険視している相手に対して、アメリカが核兵器の使用を考えているという内容も含まれているそうである。中国新聞の岡田記者の「どんな経路で、機密文書を入手されましたか」との問いに、パイク氏は「FAXから出てきたのさ」と冗談のような口調で返答された。そして、言葉を継いで自身の見解を以下のように述べられた。
 62年10月、キューバのミサイル危機のとき、9歳の私はケンタッキーに住んでいました。そこで戦闘機が給油しているのを見て戦争を知りました。それを契機に原爆の効果について学習を始めたのです。
 戦争をしてきた長い歴史が新兵器を創り続けてきました。現時点のアメリカは核兵器をかなり削減していますが、どこに居るか分からないテロの消滅は不可能という事情もあります。
 日本は長い歴史のなかで多様な文化を培ってきたから、多くの国宝を持っていますが、アメリカは歴史が浅い。原爆製造には長い時間と経費をかけてきました。だから、アメリカにとっては国宝ですよと、乾燥した声で自嘲的に言われた。私は「歴史のある日本には多数の国宝がありますから、核兵器は不要です。アメリカも別のものを国宝になさればいいですね」と述べて、パイク氏のオフィスを辞した。帰途、タクシーの窓越しにアーリントン墓地、硫黄島占領記念碑を見た。冷たい雨が降りしきっていた。                         


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(カーラ・オング女史にヒロシマ資料を贈呈)

42 アメリカ編4-07

アメリカ的歴史認識

 ワシントンDC滞在中の05年4月23日夕刻、投宿しているホテルのレストランに原爆投下を正当とする歴史家サミエル・ウオーカー氏を迎えた。その2日前に氏を迎える予定だったのが意味不明で果たされなかったのも災いしてか、長身の彼が目の前に現れた瞬間から、私は尋常でない不快感に襲われた。
 席についた彼は、穏やかな口調で一言一句に念を押すように自身の歴史認識を話された。
「トルーマン大統領は、日本本土上陸をしないで戦争を早く確実にどう終結させるかを考えていた。原爆投下時、日本は降伏しようとしていなかったし、ソ連が侵攻していた。原爆投下をしなければ、もっと多くの死があっただろう。トルーマンは原爆投下について、悲惨なことを起こしたと驚いていた」
 中国新聞の岡田記者が「では、何故、長崎に」と、たたみかけるように訊ねた。
「原爆を2度と使うなとトルーマンが言ったのは長崎の後だった。彼は朝鮮戦争では使用しないようにと言った」と、平然として答え、さらに言葉を続けられた。
「日本が無条件降伏を決意するのには時間がかかり過ぎた。日本は武器を捨てるが天皇制を残すこと。戦犯を日本の裁判に任せろ。占領を短期間で終わらせろなどの条件を加えてきたのだ。結果は、天皇制を残すことだけになったけどね。天皇は広島に原爆投下されたことにより戦争終結を決意したと思うが、ソ連侵攻のあとだった。戦後50年経って、アメリカの各地で戦勝記念行事があったのさ。そのとき、『原爆投下が戦争終結を早め、双方の犠牲者を最低限におさめた』という認識がアメリカ市民の間に神話のように浸透していると、確認できたんだよ」
 岡田記者が「アメリカと日本との認識には深い溝を感じますが、それを埋めるには、どんな方法がありますか」と、訊ねると「方法は無いよ。溝を埋める必要もないね」と、軽くいなされた。
 彼の語る話は、今までに繰り返し聞かされたアメリカ側の論理であり、耳新しいことではない。だが、耳元で言われると特別な響きで迫ってくる。側で聞いていた私は血の気が引くような戦慄を覚えた。黙って引き下がりたくないので「貴方は、広島や長崎の被爆者に出会ったことがありますか。または、被爆に関する記述や写真に接したことがありますか」と訊ねた。
「知らないね。貴方が初めてだよ」と、あっさりと言い放った彼は、一緒に飲み物でもと誘う私たちを振り切るようにして去って行かれた。
 その時から私の胃はキリキリと痛み、水さえも咽喉を通らなくなってしまった。ミッションの仲間たちの心づくしで果物とホットドッグ、そして飲み物が部屋に届いた。だが、深夜になっても食欲は起こらなかった。

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連邦議会議事堂(ワシントンDC)

43 アメリカ編4-08

ノーベル平和賞の誇り

05年4月25日、ワシントンDCのIPPNW(核戦争防止国際医師会議)を訪ねた。以前、スェーデン編とドイツ編の中でIPPNWの紹介をしたので、覚えて居られる読者もあるだろうが、ハーバード大学の医師たちによって1991年に設立された良心の団体である。
  アメリカのIPPNWメンバーは3万2千人、現在の主たる活動は国の政策を変えることであると言う。そのためのロビー活動を活発に行っているそうである。
 私たちはボブ・ムシル代表の説を拝聴した。
「クリントン元大統領が平和的と評価されているけれど、実は、強力なNGO(非政府組織)がいて、いろんな組織を作り、アメリカの軍縮を求めるとか、CTBT(包括的核実験禁止条約)の調印、NPT(核兵器不拡散条約)などにも大きな影響力を及ぼしてきたと理解していただきたい。
 問題があった選挙で勝ったブッシュ大統領は国際的な平和を拒否しています。
 IPPNWは、包括的平和運動(頭文字をとってSMARTプログラムと呼んでいます)を、国際的機関、国際的な法と方法を通じて核兵器、軍縮を実現させたいと思っています。アメリカは武器の新開発を止め、先制的戦争をするなということです。国防省すべての予算4500億ドルの優先項目は、他の手段によるセキュリティーとか、若い人たちの教育にエネルギーを移行するべきです。
 アイオワ州では、この運動を通じて市民の意識を集めました。オレゴン州、ウィスコンシン州にも伝わっていきました。ユタ州のマトソン下院議員は核実験防止の旗頭ですが、そのきっかけは、彼の父が州知事だったころ、核実験によって亡くなったからです。IPPNWのローカル会員は、核被害者たちの治療に当たっていますよ。」
私たちは、ムシル氏と入れ替えに部屋に入って来られたトム・グラハム氏の話を傾聴することになった。氏はクリントン大統領時代に政府の特別顧問として軍縮、核兵器制限などを中心に働かれた。現在は弁護士、大学講師、著作家として国際的な平和貢献をして居られる。
 「1998年、日本の首相は『日本は敗戦国である。アメリカの政策に疑問を持つことは出来ない。核の傘の下にいます』といいました。私は日本の政策について尊敬しています。しかし、核の先制使用について拒否の見解を持っていながら、日本政府が積極的でないのはどうしてでしょう。このことを、もっと主張すべきなのです。私は日本には何度も参りました。広島3回、長崎1回、それぞれ核問題の会議でスピーチをしました。被爆者とも話し合いましたよ」と、深い理解を示された。
 その中で、最も印象深かったのは「NPTを無期限に延長するのが日本の役割と思っている」というメッセージだった。

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(IPPNWオフィス)

44 アメリカ編4-09

ヒロシマを学ぶ高校生

 ワシントンDCから列車で1時間半、ウイルミントン駅頭に出迎えてくれたのは日本人の山口氏だった。そこからフィラデルフィアのウエストタウンまで猛スピードで1時間以上もかかった。訪問先のウエストタウン高校は不戦を主張してはばからぬクエーカー教徒の経営する精鋭校とのことである。広大な敷地には牧場や農場もあって、自然の中に生かされていることを実感させられる。細かい心遣いをして下さる山口氏を教員だと思っていたが、実は生徒さんの父親であった。この学校の積極的な平和教育に共感して子息を入学させたそうである。
 05年4月26日の朝、鳥たちの声で目が覚めた。
 午前の学習会はクエーカー教徒の慣わしであるメディテーションから始まった。声を出して祈るよりも自己の内面に語りかけるのを重視する信仰の証である。
 授業の最初は映画が上映された。それは被爆当時の広島市街の様子、被爆者の様子、核兵器の脅威など、記録映画を編集して被爆の実相を如実に物語るものであった。次いで私が被爆体験を語った。生徒たちは私たちの訪問に先立って、事前学習を積み重ねたそうで「核兵器使用を止めるには、どうすればいいですか」「核兵器を広げないためには、どうしたらいいですか」「核技術の輸出入をしている国同士があるのは、どうしたらいいですか」と、堰を切ったように質問を発した。
 中国新聞の岡田記者が「核兵器廃絶以外に核被害を防ぐ方法はない。核がある限りテロがウランを使用する可能性もあるだろう。NPT(核兵器不拡散条約)を確立し、国際的安全を図るべきです。問題のある国々が互いの緊張を取り除くのが当面の課題です。世界は力でなく、信頼関係で解決するしか道はないと思う。そのためには市民の交流が大切なので、そのレベルの運動が必要です」と答えた。
「アメリカの原爆投下は正当であったという考えについて、どう思いますか」と質問が出た。それには、私が以下のような回答をした。「1945年初頭から、日本は東京・横浜・神戸などの主要都市は爆撃され、沖縄はアメリカの大艦隊が上陸、日本人は自ら命を絶つとか、アメリカ兵に殺されるか捕虜になって、悲惨な状態になっていました。降伏は目前でした。7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験の成功を確認したトルーマン大統領は、急いで広島に原爆投下させました。私は、原爆投下は間違いであり、広島は実験台にされたと思っています」と答えた。
 その午後、11年生(日本の高校2年生と同じ)に加え、社会人の参加を得てシンポジュームを持った。その模様は、次回に紹介させていただく。

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(高校生との対話)

45 アメリカ編4-10

歴史から学び、未来を拓く

 フィラデルフィアのウエストタウン高校は、不戦を主張してはばからぬクエーカー教徒の経営する精鋭校である。
 05年4月26日の午後、11年生(日本の高校2年生)と社会人と合同の研修会が催された。例のごとく、私は被爆体験を語った。つと立ち上がった女生徒が「被爆したあなたは、どう乗り越えたのですか」と、私の顔をじっと見た。
 私は答えた。「1946年元旦、天皇が人間宣言をしました。47年5月、日本国憲法が執行されて、国民は等しく人権を得ました。アメリカから持ち込まれた民主主義思想によって堂々と社会参加が出来るようになったことは、低い立場にあった女性は喜びと希望を得ました。敗戦から4年後、私が入学したキリスト教主義の女子中学校には、アメリカから来られた宣教師が英語の先生をされていました。放課後、宣教師たちは原爆孤児や被爆者の癒しのために働かれました。私たち生徒は、毛糸で10センチ角のピースを編んで、それらを繋げて肩掛けや膝掛けにするようにと指導されました。クリスマスが近くなったころ、それらを被爆者たちに届けてボランティアの手本を示して下さいました。私の個人的な体験を申しますと・・・ある日、私が宿題をして来なかった理由を宣教師の先生に問いただされました。私は母が被爆のために寝たきりであると言い訳をしました。その後その先生は、出会う度に母の容態を訊ねてくださいました。原爆投下したアメリカは許しがたいけれど、こうした民間レベルの謝罪と善意を受けることによって、私は癒されていきました」。緊張した面持ちで聞き入っていた人たちから安堵の吐息が伝わってきた。
 間髪を入れず「9・11以来、私たちはナーバスになっています。それを分かって下さいますか」と、訴える発言があった。私は「9・11の半年後にグランドゼロに参りました。世界貿易センターの周囲には惨劇の痕跡がありましたが、ニューヨークは元気でした。なぜ、核兵器で壊滅状態になったヒロシマ・ナガサキと同じに受け取らねばならないのでしょうか。アメリカは被害者だという意識を定着させないで、あの事件が起こった原因を考えて欲しい。必ず、そこに至るまでには原因があったのです」と答えた。一瞬、会場がざわめいたが、私は自分の思いを曲げる気は毛頭なかった。
 その翌朝、教師の研修会に参加した。終了後、私が教室を出て行こうとすると、女性教師に呼びとめられた。「あなたに9・11事件について反省をと言われて、私は怒りました。一晩かかかって悩みました。私たちは反省を忘れていました。これからは、深く真相を探る努力をします。ありがとう」と言われた。


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(ウエストタウン高校から千羽鶴を託される)

46 アメリカ編4-11

ヒロシマを表現する芸術家たち

05年4月27日から5月8日まで、ニューヨーク滞在中は広島市出身の造形作家・砂入博史(すないりひろし)氏が通訳をして下さった。互いに自己紹介をして、彼の生家が私の実家と同じ町であるのが分かった。世代の違いがあるとはいえ、共有できる話題に事欠かないのが嬉しかった。
 29日午後、砂入氏が教鞭をとって居られるニューヨーク大学アート科を訪問した。キャンパスというより工場と言いたいような雰囲気である。廊下といわず教室といわず、例えようのない臭いと金属の触れ合う異様な物音が充満していた。学生たちが真剣な面持ちで粘土、ペンキ、石膏、木材、金属類、紙、布などに命を吹き込もうとしてリズミカルに身体を動かしていた。何でも7月末から広島市の被爆建物である旧日本銀行で「平和展」をするための作品作りだと言う。ミケランジェロやロダンの造形物を見慣れている私には、彼らの指先から繰り出されていく物体が何を表現しているのか分からない。
 通された教室は天井がやけに高くて殺風景だった。十数人の学生たちは教室に入ってくるや、片隅にある階段に固まって座った。破れたジーンズ、絵の具は言うにおよばず、粘土や金属の錆にまみれたTシャツや上着、それにチューインガムを噛み続けの彼らの前に立つと、今まで味わったことのない緊張を覚えた。それは、彼らの関心をヒロシマに集中させずにはおかないという意地のような思いが、私の胸中にこみ上げてきたからであった。
 私たちのプレゼンテーションを聞き終わった後、彼らは20センチ角の白い紙で鶴を折り始めた。私たちも仲間入りしたのでガランとした教室に熱気が渦巻いた。しかし、彼らは寡黙だった。心の奥底を伝えるには造形による手段をとる彼らだからと理解するしかない。
 8月18日、広島での再会を彼らと約していた私は2人のスウェーデン青年を伴って広島現代美術館で個展をしている砂入氏を訪ねた。彼の作品は、足首が切り取られた象が横たわっている造形物。彼の説明によれば、象は過去にあった事柄を忘れない動物であると言う。この作品は「ヒロシマを忘れてはならない」というメッセージだそうだ。表現方法については説明を聞かなくては分からない私だが、青年たちは興味深く、しきりに砂入氏に質問をしていた。
 続いて旧日本銀行の「平和展」を訪ねた。そこにはニューヨーク大学の学生達が運んできた作品群があった。私たちも手伝った折鶴が舞っていた。やはり、私には理解不能だが、残酷なことを繰返すなというメッセージが伝わってくるような気がした。学生たちは会場を訪れてくれた人たちから懸命にヒロシマを学んでいると言っていた。


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(ニューヨーク大にて)

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(旧日銀のエキジビション)

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(象の足音)

47 アメリカ編4-12

アメリカのカリスマ

 05年4月27日午前中、私はバージニア州ノーフォークのバージニア・ビーチで空白の時間を持て余していた。地図を見ればマッカーサー記念館がある。アメリカが彼をどのように評価しているか伺うチャンスと思うのだが、やたら広い道路は猛スピードで車が行き交っているので、向こう側に渡る気がしない。ふと、草むらの四つ葉のクローバーが目に留まった。2本目、3本目も、とうとう、8本の四葉のクローバーを摘んで手帳に挟んだ。
 午後3時、「クリスチャン連合(キリスト教原理主義)」の元総裁パット・ロバートソン氏を訪ねた。彼の所有しているビルは西欧の宮殿のような趣がある。アポイントを取ってあったのだが、彼が現れるには時間がかかった。豪華な執務室には歴代の大統領や要人と一緒に撮った写真が麗々しく飾ってあった。それらにはタカ派もハト派もいる。CBN(クリスチャン ブロードキャスティング・ネットワーク)でテレビ伝道師を務めている彼が、信者たちのカリスマとして絶大な影響力を持っていることを裏付けている。
 中国新聞の岡田記者が「アメリカの精神的指導者としての貴方のご意見を伺いたい」と挨拶したら「個人的には核が広がっているのを憂慮しています」と、優等生のような返答をされた。
 岡田記者が、「アメリカは小型核兵器の開発をやめられますか」と尋ねると、「止められないと思う。北朝鮮のように汚い政権などが危ないから、世界のためにアメリカの力が必要だ」。記者は、「それだからアメリカは核を必要としているのですか」と迫った。「アメリカは民主主義を拡げるようにやっている。核保有しているのは世界平和実現への抑止力としてであり、相手が攻撃に来なければ使用することはない。テロ集団が危険です。核保有は悪い奴を捕まえる救急策です。フセインは核を持ちたがり、石油を独占しようとしていた。アメリカは警告を発したのです」と、言い訳めいた返答をされた。
 さらに私たちに向けて「広島と長崎は不幸なことになりましたが、それは当時の日本の指導者のせいです」と、淡々と、しかも確信に満ちた物言いをされた。
 私は「ヒロシマは力より対話、相互理解しか解決の道はないと考えています。そして核兵器廃絶を望んでいます。イスラムとの和解も対話ではないのでしょうか」と訴えたが、笑顔がかえってきただけだった。
 退去してタクシーを待つ間、ビルを囲むように広がる庭園を眺めると、広島の平和公園にある「平和の灯」(世界中の核兵器が廃絶するまで燃え続ける)に似ている建造物があり、炎が上がっていた。「この灯、どんな意味があるのかな」とメンバーが声をあげた。岡田記者が「この世にイスラム教徒が居なくなるまで燃え続けるのさ」と、すかさずジョークを言ったが、笑い出す者は1人としていなかった。


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(パット ロバートソン氏)

48 アメリカ編4-13

四葉のクローバー

 05年4月28日、教育者ですと自己紹介された中年の男性に伴われて3年振りのグランドゼロに立った。すっかり整地された跡地は、建設に余念のないのが異様である。彼の後ろを追いていくと大きなビルの受付に出た。厳重なセキュリティーチェックを受けて内部に入ると、9・11犠牲者の祈念堂だった。写真、手帳、衣服、装飾品、ネクタイ、指輪。家族や友人からのメッセージ、詩、絵、手紙。豪華な造花は枯れないようにとの配慮であろう。そして、数々のアメリカ国旗。日本人犠牲者の写真や弔辞もある。床に座りこんだ母と幼児が遺影に向かって話しかけている。あそこにも、こちらにも。どこへ視線を投じても悲しみがこみ上げてくる。
 でも、と私は思う。被爆後の広島には、癒しの場面が無かった。ヒロシマ・ナガサキの死者たちは1片の写真も残せなかった。こんな立派な祈念堂で、死者を偲ぶことすら出来なかった、と。
 祈念堂を辞して9・11犠牲者の遺族会、ピースフル・トゥモロウズの事務所に案内された。好戦的なブッシュ政権に抵抗して報復を止めるように進言しているこの団体は、今や、世界中の平和運動家の耳目を集めるまでに大きくなっていた。
 遅れて部屋に入って来たコーリン・ケリーさんが、私の正面の席に着かれた。「は~い。ケイコ」彼女が驚きの声をあげた。私は立ち上がって「お土産があるの」と、彼女の手を取って、ノーフォークで摘んだ四葉のクローバーを包んだティシュペーパーを差し出した。それを見た彼女は「ワッ~」と、手を口にあてて泣き出した。周囲の人たちは、その騒ぎに驚いて、ケリーさんと私を見つめた。
 3年前、彼らとの対話集会がニューヨークの仏教寺院で開かれたとき、私は「ヒロシマは、原爆投下のあと、75年は草木も生えないと言われたのです。でも、4年後に進学した女子中学校の校庭に四つ葉のクローバーが沢山生えたので、大喜びで讃美歌や聖書に挟みました。4つの葉は、希望、信仰、愛情、幸のシンボルだと言われています。私は、不幸な目にあったヒロシマだから、神様が幸せを運んでくださったと信じました。しかし、それが放射能に因るものだと知ったとき、落胆しました。世界貿易センターの跡地には四つ葉のクローバーは生えないでしょう。9・11事件で核兵器が使われなかったことを喜んでください」と発言した。
 私が話終えたとき、ケリーさんが私を部屋の隅に呼んで「ほら、見て」と、スカートの裾を引き上げた。太腿に四つ葉のクローバーの刺青があった。「9・11で亡くなった兄がしていたのよ。だから、私も同じ図柄に刺青をしたの」と涙ぐんだ。
 今回のケリーさんは、私にウインクして「兄は、私が生きる道を示して呉れたのよ」と太腿を叩いて微笑んだ。


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(ケリーさんと再会)

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(四葉のクローバー)

49 アメリカ編4-14

アキバプロジェクト

そもそも、アメリカにおける第二次世界大戦の評価は「パールハーバーに始まり原爆投下に終わる」が定説である。原爆投下を正義と見なすアメリカは、ヒロシマ・ナガサキに謝罪するどころか、「多数の人命を救った」と虚言を弄しているばかりか、アメリカ市民に、それを定着させている。
 70年代、中国新聞社と広島国際文化財団は、アメリカのジャーナリストに原爆の実相、被爆後に起こった諸問題、全世界に起こっている核問題を理解させるためのプロジェクトを立ち上げる準備を始めた。現・広島市長秋葉忠利氏がマサチューセッツ州ボストン近郊にあるタフツ大学で教鞭をとって居られた。氏の並々ならぬ尽力によってヒロシマ・ナガサキへの招聘がスタートしたのが1979年だった。この事業は「アキバプロジェクト」と名付けられて10年続いた。総計40人のジャーナリストを招聘し、学習させた成果として、現在のアメリカの正義を問いただす力になっている。
 世界平和ミッションに途中から参加した私を、オハイオ州コロンバスの空港に出迎えて下さったのが、オービリン大学教授のダイアナ・ルースさんだった。80年、アキバプロジェクトの1員として広島の地を踏んだとの事。04年8月、高校生の息子ケビンさんと、再度のヒロシマ体験をしたそうだ。
 彼女は、ミッションの行程に合わせ、オハイオ州ウイルミントン、ワシントンDC、ウエストタウン高校、ニューヨークと、駆けつけて下さったばかりでなく、骨身を惜しまず名アドバイザーの役目を自らに課した人だった。5月1日、ニューヨーク、セントラルパークへの平和行進の先頭を歩いてくる秋葉市長に精一杯の声援を送っておられた姿は、私の脳裏から去らないだろう。
 著述界で活動されているグレッグ・ミッチェル氏もアキバプロジェクト出身ですと、誇りをもって自己紹介された。若い世代のために映画「チャイルド・ボム」を製作しました。その仕上がりには自信がありますよ・・・と、言われたとき、私は不思議な邂逅に驚きの声をあげた。私は、日本人スタッフから口説かれて声の出演をしていたからである。
 私は「今まで、いくつもの反戦とか核廃絶をテーマにしている映画製作に協力をしました。出来上がったら見せてくださいと、お願いしましたが、叶えられたことが無かったです。『チャイルド・ボム』は私が受け取った最初の作品です」と、感謝の辞を述べた。グレッグ氏は、私より何倍もの驚きを身体一杯に表現された。
 帰国後、氏の著書「アメリカの中のヒロシマ」(岩波書店)を紹介されたので購入した。噛み応えのある内容なので、少しずつ読んでいる。まだ、下巻もあるのだ。 


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(ダイアナさんとセントラルパークにて)

50 アメリカ編4-15

ニューヨークの日本人教師

 どの宗教もそうだが、聖典の解釈が異なると信仰のスタイルも多様化し、細分化する。キリスト教も例外でなく、ブッシュ大統領も自らを敬虔なクリスチャンと名乗り、彼の流儀によってイスラムを攻撃しているのである。
 キリスト教プロテスタントの一派であるクエーカーは、とみに真摯な信徒集団である。通常の教会には牧師が信徒や求道者を導くが、クエーカーは人の上に人を置かず、瞑想によって「内なる光」を見つめると同時に、権力に屈せず、絶対平和主義を貫いている。仏教の禅宗に似ていると言えば、その筋から反論されるだろうか。
 05年4月29日、私たち世界平和ミッションは、クエーカーが経営しているニューヨークのブルックリン高校を訪問した。
 まず、私たちが携えてきた被爆写真の展示の準備に取り掛かろうとしたら、教師陣が「生徒たちは敏感な年頃です。強い刺激は困ります。悲惨な写真は展示しないで下さい」と言うのだ。私は、「何故、見せないのですか。目隠しをして、何を伝えようとしているのですか」と、教師陣の中にいた日本人教師に言った。彼女は「私も、事実を直視させたいのです。でも、この国のやり方は違うのです。若い人たちを辛いことから守ることが、重要なのです」と答えた。
 私は、「この国の戦争は兵士だけが戦います。アメリカ以外の国々では、幼児も女性も差別なく死んでいったのです。原爆は人を選ばず破滅させたのです」と言い放った。
 しかし、招聘した側の思う通りにプログラムは進んだ。私に許されたのは15分程度。これで生徒たちは「ヒロシマを理解した」と思うのだろう。それでもいいや、多くのアメリカ市民は、広島に原爆投下によって多くの人命を救ったと信じているのだから、クエーカーの人たちが聞いてくれただけでも、よしとするかと、気を取り直した。
 授業の最後に、広島県の山陽女学園が贈った千羽鶴を掲げて、満面の笑みを湛えて記念撮影をした。
 外部から持ち込んだ行事をこなすのは、おおむね学校ぐるみではなく、教師、取り巻きの人たちの配慮、生徒たちの要望によるのがアメリカ流である。このプログラムは、日本人教師・牧島ミエさんの熱意によって実現したそうである。私と問答したことを、しきりに恐縮する彼女に「アメリカでは、どこでも悲惨なものから目をそらすようですから、慣れっこですよ。クエーカーだからこそ、ヒロシマを語るチャンスを下さったのですね。ありがとう」と、素直に挨拶することが出来た。


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(ブルックリン高校)