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      <title>ヒロシマを生きて</title>
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      <description>被爆者：村上啓子</description>
      <language>ja</language>
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         <title>1945年8月6日（月曜日）</title>
         <description><![CDATA[　私は白島国民学校3年生でした。その日、なぜかお寺に行きたくないので「休みたい」と父に申しました。常には厳格な父ですが「じゃあ、お家に居なさい」と、許してくれました。

もし、登校していたら・・・お寺に居た先生も児童たちも全員が亡くなりました。登校途中だった一人のクラスメートは橋の上で被爆しました。彼女は今も生きていますが、左半身は熱傷で首も腕も間接が硬直しています。もう一人生き残ったクラスメートが居るらしいとの噂があるのですが、誰にも消息を伝えてきません。

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<em>原爆炸裂30分後のきのこ雲。爆心地から7キロの安佐郡古市町の神田橋で　（撮影：松重三男氏）</em>　


8時15分が原爆投下された時間です。そのちょっと前、空の彼方から飛行機の音が聞こえました。庭に出て空を仰いだ父が言いました「これは日本の飛行機じゃない。危ないから退避壕に入りなさい」2歳10ヶ月の弟と私は数日前に家の中に出来た退避壕に逃げ込みました。その直後、全身に大きな衝撃を感じました。それが原爆投下の瞬間だったのです。

　父も私たちの方に突進してきました。一瞬で家が崩れたのですが、父の腰に掴まって倒れた柱や壁土や瓦の隙間から這い出しました。

　母の姿がありません。私たちは大きな声で母を呼びました。すると、足下の瓦礫がムクムクと動いて母が現れました。腕に生後57日目の妹を抱いていました。

　母は全身にわたってガラス傷を負っていました。とりわけ、大きなガラス片が両瞼の上、眉の下、右頬に突き刺さっていました。右の目玉が飛び出して胸のあたりまで垂れ下がっていました。父が掌で掬いあげたのですが、どうしようもなく千切って捨てました。

　ガラスを抜くと血が吹き出るからと、左瞼、頬、首周りなど、辺りかまわずに刺さっているガラスは抜かないことにしました。

　父も左半身に大きな傷を負っていましたが、右腕で母を担ぐことにして、妹と弟を私に託しました。

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<em>広島第二陸軍病院太田川畔テント救護所　（8月7日、爆心より1500m、　河原四儀撮影）</em>


　私たちは、よりによって我が家が爆撃されたと思いましたから、お隣に助けを求めました。お隣も、そのお隣も崩れていました。埃が舞い上がっていたので視界はなく、1軒1軒と順番に訪ね歩いて300mばかり離れた川原に辿り着きました。迅速に行動した私たちは小さな潅木の陰に母を寝かすことが出来ました。ふと気がつくと、私たちの周りには負傷した人が大勢集まっていました。熱傷とか傷ついた兵隊さんが軍刀を振り回して狂ったように「敵」を罵っていました。しかし、次から次へと倒れてしまいました。狭い川原ですから、押し寄せた人々の居場所がなくて、人の上に人が乗りかかったので、たちまちのうちに死者の山が出来ました。

　市の職員だった父は義勇隊事務局長でした。その職務は、緊急の場合に市民を誘導したり救助することでしたから、一刻も早く職務に付きたいと思いました。それにはまず、自分の家族の保護をしておかねばなりません。私が母と弟を見守ることになりました。

　父は、母の返り血を浴びた妹が息絶えたと思ったので、仮に埋葬しておいて、あとで掘り返しに来るつもりでした。穴を掘ったものの、血まみれになったのが哀れと感じたので、川の水でジャブジャブと手荒く洗いました。その時、妹がかすかな泣き声をあげました。

「アッ、生きている。埋めなくてよかった」と、喜んだのも束の間、妹にはお乳が必要でした。母のお乳はショックのあまり一滴も出ません。途方にくれたと同時に、押し寄せてくる負傷者が暴動を起こしてはならないと考えた父は、元気そうな兵隊さんと協力して、「すぐに救援が来るから、落ちついてください」と、触れ歩きました。被災者の中に1人の女性を見つけました。彼女の胸からお乳が滴っていました。「娘にお乳をください」と、お願いしました。「このお乳はたった今死んだ私の赤ちゃんの物です。他人には上げられません」と、断られました。父は、砂地に頭を擦り付けて、何度もお願いしました。すると、周りに居た被災者から「死んだ赤ちゃんは、戻ってこないけれど、生きている赤ちゃんに貴方のお乳を上げて、生き延びさせて上げなさい」と、声が上がったのです。その女性は、やっと、妹にお乳を下さる気持ちになって下さいました。

　私たちは朝から何も食べていませんでした。川原に植えてあったキュウリ、トマト、カボチャ、ナスなどをもぎ取りました。1口食べたとたん、私の家族はすべて吐き出してしまいました。私たちが捨てた物を奪い合って食べた人々がいました。そのことは被爆者の運命を大きく分けました。放射線を浴びた物を食べたり飲んだりした人たちは内臓に放射能を取り込んだのですから、死んだ人もいましたし、生きていても内臓疾患になった人も多く、悲壮な状況に追いやられてしまい、苦しい敗戦後の生活をされました。

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<em>西練兵場の被爆死体　（8月10日、爆心より500m、中田左都男撮影）</em>

　
父は、私たちを川原に残して置いて職務に付くことを試みましたが、周囲は火の海です。目の前の川を渡って大回りをして市役所に行こうとしたのですが、川の流れがきつく、しかも多くの死骸が流れているし、多くの人が暑さを避けて川に浸かっていましたから、とても泳いで渡ることが出来ませんでした。思い直して、夜通し、兵隊さんたちと協力して暴動にならないように警戒しました。

　夜通し家々が燃えていましたが、明け方になると鎮火しました。被災者も見る見るうちに亡くなってしまいました。私の妹に「お乳を上げなさい」と、女性に声をかけてくださった人たちも、そうでした。
　静かな朝を迎えました。

　父は家の焼け跡に行って、梅とラッキョウの壷を掘り出してきました。川向こうの牛田町の山襞あたりは火災が無かったようなので、その辺りの知人の家に避難することにしました。出発する前に、もう1度、妹はお乳を飲ませてもらいました。梅とラッキョウは、彼女へのお礼として差し上げました。そのことは、私たちの家族にとって最も辛い日々の始まりでした。差し上げた梅とラッキョウは放射線を浴びていたのですから・・・

　敗戦後、落ち着きを取り戻したころになってＮＨＫラジオの「尋ね人の時間」で放送して貰ったり、新聞に掲載して貰って、妹にお乳をいただいた女性を探したのですが、消息が分からないままでした。もし、彼女が梅とラッキョウを食べたのが原因で亡くなられたとしたら、私たち家族はとんでもないことをしてしまったのです。

　数日後、中国山地の山県郡から祖父と叔父が私たちを探しに来てくれました。弟と私は祖父母の家に預けられることになりました。そのとき、初めて焼け野原になった広島市街を見渡しました。見覚えのあるものは何も見当たらず、ガレキだらけになっていました。破裂した水道管に水を求める人たちが群がるように折り重なっていました。叔父が弟を背負って歩きました。弟は「お母ちゃん、お父ちゃん」と、泣き叫びました。時折、疲れた叔父が弟を背から下ろすと、弟は後戻りしようとして走りだします。私は弟を追っかけてなだめましたが、私だって両親と離れてしまうのは心細くて泣き出しそうでした。

　広島の夏は、とても暑いのです。その時は、何もかも無くなったものですから、日陰さえありません。照りつける太陽で熱くなったガレキだらけの道なき道を裸足で歩きました。不用意にもガレキの下にあった死体を踏みました。そのときの感触は今でも鮮やかです。あれ以来、夏になると足の裏が熱くなって、いたたまれない思いをします。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">01-語り伝える「あの日」</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 May 2007 16:31:49 +0900</pubDate>
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         <title>被爆地では</title>
         <description><![CDATA[　中国山地を縫って流れる太田川、その河口に出来たデルタが広島市です。北と東西は山に囲まれ、南は広島湾です。もともと狭い土地でしたが、明治時代に千田氏によって埋め立てが進み、文字通りに広島（人工的）になったのです。その殆どは砂地です。海抜ゼロ地帯が多く、それ以前にも台風の度に浸水事故が多発していました。

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<em>狛犬の焼け跡、遠方には被爆電車が見える。（撮影：尾木正巳、爆心地より1400ｍ）</em>


　その年も10月になると大型の台風が2度到来して土砂を川に流してしまいました。このために大勢の犠牲者が出たのは悲しい出来事でしたが、被爆地ではない場所から土砂を運んできて埋め立てをしたので地表は放射能を含んでいない状態になりました。東大をはじめ、各地の学者や医療関係者が原爆の解明のためや被爆者の治療のために派遣されました。一部の学者から「被爆地には70年間は草木も生えない」と伝えられたそうですが、草木が蘇ってきました。

　翌1946年の春、被爆した桜の樹が蘇り、春風に誘われて花びらが舞いました。夏が近づくと夾竹桃の花が咲きました。その花から「生きる勇気を貰った」と、被爆者たちが言いましたので、夾竹桃を広島市のシンボルとして制定しました。見渡すかぎり焦土のヒロシマに少しずつ増えていくバラック建ての家々の周囲には、トマトもキュウリも熟れました。しかし、私は赤い夾竹桃は好きになれません。真赤なカンナが燃え立つように咲いたのも忘れることが出来ません。あの日の炎が迫ってくるように思えるからです。

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         <pubDate>Fri, 25 May 2007 16:33:45 +0900</pubDate>
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         <title>私の被爆後遺症</title>
         <description>弟と私は山県郡に移ったとはいえ、祖父は宮大工でしたから畑を少ししか持っていませんでした。周囲の農家も、それぞれに被災者を受け入れて介抱していましたから、食料を分けて貰える状況ではなかったそうです。

　8月15日敗戦。
　大人は心のより所を失ったようですが、子どもの私は、敵の飛行機が飛んで来なくなったし、退避壕に逃げ込む必要が無くなったので嬉しいと感じました。

　10月になってから、私には高熱がでて、血尿、血便が出るようになりました。田舎の医者には原爆の情報なんか届いていませんでしたから、悪い伝染病だろうと診断されて納屋に隔離されました。弟が「姉ちゃん、姉ちゃん」と、扉を叩いて泣き叫びましたが、何もしてやれませんでした。医薬品も乏しい時代でしたから、寝ているだけでした。約1ヶ月ばかり経ったころ症状は治まったのですが、耳から臭い膿が出るようになりました。咽喉の方から口に溢れるように出てきました。これも治療の方法がなく、ふき取るだけでした。

　11月になってから、広島市の南方・皆実町にあった半倒壊の家を借りることが出来たので、家族は一緒に生活することになりました。私は、日赤病院に通院するようになりましたが、病院では医薬品が充分ではなかったのです。看護婦さんが「ペニシリンがあったらいいのに・・・」と言われたのを父に告げました。その数日後、父は闇市で3個のペニシリンを入手してきました。それのお陰で、快方に向かったのを覚えています。

　私たちが山県郡に去ってから、両親と妹は袋町国民学校に出来た被災者収容所に移りました。母は、医師の手でガラス片を抜き取って貰いましたところ、左の眼球が残っているのが分かりました。幸運にも専門医から手術を受けることが出来て、再び明かりを取り戻しました。でも、多くのガラス傷と内臓機能の疾患で、殆ど寝たきりでしたから、私が家事一切をすることになり、学校へは妹をおんぶして通学しました。

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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">01-語り伝える「あの日」</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 May 2007 16:34:46 +0900</pubDate>
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         <title>後々までも</title>
         <description><![CDATA[　1945年8月6日以来、残留放射能が人々を苦しめました。
被爆者はもとより、被爆者を介抱した人、焼け跡を歩き回った人、黒い雨に濡れた人、被爆死体を片付けた人、広島にいろんな情況で関わった人たちが病に罹り、亡くなったりしました。「被爆者に接すると伝染する」と流言飛語が飛び交い、被爆者は差別の対象にされました。

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<em>万代橋の人影　（爆心地から890m、米軍撮影）</em>


　敗戦直後に広島に住み始めた人たちは戦時中に疎開していた人たち、広島に行けば復興のための仕事があるかも知れないと集まってきた人たちが多かったので、被爆者への同情も薄く、一人一人が生きていくのがやっとの世情でした。それに、多くの被爆者は山間部や遠方に逃れて行って、当分の間は療養していたので、広島市内に戻って来られるようになるまでは、かなりの歳月を要しました。

　被爆した女性は流産、死産、障害児を生みました。だから、その後もずっと被爆者は結婚を拒否されたり、結婚をためらったり、子どもを生まないという例が多かったのです。

　敗戦12年目（1957年）になって、やっと被爆者を専門に診る病院が出来ました。それも、国が創設したのではなく、日赤病院の重藤院長の尽力でお年玉年賀葉書の収益金を受けて、日赤病院の空き地に建設されたのでした。

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<em>壊滅した八丁堀電車通り付近、道路上に救護隊や罹災者の消息を尋ねる人たちが見える。　（9月頃、爆心地より870m、上流川町、河原四儀撮影）</em>


　私は、その創設時に就職しました。私の職務は被爆者に面接して彼らの被爆体験を記録し、健康や生活面の訴えの聞き取りをすることでした。

　敗戦から12年も経っているのに、生活苦のために医療機関で初めて受診する人が大勢詰め掛けました。聞き取る私も被爆者ですが、彼らの悲惨な記録をとるのは、本当に辛い日々でした。それを通じて、私は私の家族は被爆者の中では幸運なケースだと感じるようになりました。それでも、2階の病棟には母が瀕死の状態で臥せって居りました。

　ある日、私も精密検査を受けました。それまで眩暈がすることが多かったのですが、病気だとは気がつかなかったのです。血液検査の結果は赤血球も白血球も通常の半分以下でした。職員である私が原爆後遺症の認定を受けることになって、被爆者としての自分を認識しました。そういった環境の日々は、私を極度に失望の淵に立たせました。たった1年半でギブアップして退職しました。

　以来、年に1度は精密検査を受けるように努めているのですが、血液が正常値以下というのが続いています。しかし、私は生きています。背が高い、背が低い、痩せている、太っている、障害がある、それぞれの違いがあって人は様々ですが、どんな条件があろうとも生かされていることは事実なので、神に感謝して、命を全うしたいと思っています。

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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">01-語り伝える「あの日」</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 May 2007 16:35:45 +0900</pubDate>
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         <title>私の原点</title>
         <description><![CDATA[　敗戦2年目の初夏、新憲法が制定され執行された直後でした。父が東京に連れて来てくれました。当時は列車の燃料が石炭で、隙間だらけの窓から煤煙が入ってきましたから、鼻にタオルを押し当てて乗っていました。1昼夜近くもかかりました。食料難でしたからカバンにコッペパン数個と、統制品の米を食べるための給食切符を携えて旅でした。

　最初の夜は上野公園の中で浮浪児たちと野宿させられました。翌日は芝公園の近くにある日赤の宿舎に泊まりました。5日間くらい滞在して最後に半蔵門の堀端で父が言いました。
「戦争で破壊されたのは広島だけじゃないことを知って欲しいから啓子を東京に連れて来た。日本の首都の東京も、こんな有様だ。戦時中、この戦争は正しくないと言って牢に繋がれた人もあったのに、私はこの緑豊かな皇居にいる人を守るために働いた。罪深いお父さんを許して欲しい。見てご覧、東京の街は荒れ果てているのに皇居は何事もなかったように美しいだろう。私は、これから広島を再建するために一所懸命働くが、日本が二度と戦争をしないという魂を入れるのは、啓子の世代なのだよ。自分の目で見た東京や広島での被爆体験を忘れないで欲しい。そして、どんなことがあっても争いをすることに加担しないことだ。そのことで仲間がなく、一人ぼっちになっても勇気をもって前進する大人になって欲しい」
　この父の言葉と珍しい経験をさせてくれたことは、私が成長するに従って彩を変え、私の指針になりました。

　しかし、被爆体験を語る気持ちになるには遠い道のりが必要でした。身の上話をすることに抵抗がありましたし、隠しておきたい事柄も沢山ありますから、質問が出るのも怖いのです。知らない人にとっては何気ない質問でも、私にとっては辛いことなのです。

　文章にすることを勧めてくださったのは峠三吉の「ちちをかえせ　ははをかえせ」を英訳して世界に広めた恩師・大原三八雄教授でした。でも、私は何もしませんでした。

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<em>島病院入院通院・関係者らへの伝言
「生死消息・住所姓名をご記入ください。島薫」の文字が見える。願いもむなしく一人の生存者もなかった。</em>


　1981年のことでした。ふと、被爆直後に過ごした祖父母の家での思い出をエッセイにして第一回広島市民文芸作品に応募しました。応募のきっかけは市民意識の発露としての気軽なものでしたが、思いがけず、それが第一席を受賞したのです。その直後、母が亡くなりました。

　文章で何かを伝えることは、私の新しい出発でしたが、フィクションは書けても自分自身の体験は書けませんでした。しかし、被爆者の思いを存分に書きました。

　1984年だったと回想するのですが、ドイツ人牧師が広島に来られまして、私が案内することになりました。彼は私と同じ位の年齢でした。原爆資料館を巡っているとき、彼が話し出しました。
「戦時中、私にはとても仲のいい友だちがいました。ある日突然、彼の家族が居なくなったのです。私は両親に『引越しするなら、どうしてお別れを言ってくれなかったのだろう』と言いました。その時、私の両親は何も言いませんでした。戦争が終わったある日、私の両親は『あの家族はユダヤ人だった』と、教えてくれました」
　その逸話を聞いた私は、膝がガクガクして立っているのがやっとでした。まさに歴史の証言だと思いました。彼自身がユダヤ人ではないのに、その話は私の心に変化をもたらしました。もしかして、私が誰かに「私は広島で被爆しました」と、言えば、｢戦争とは｣「平和とは」「核兵器とは」と、深く関心を持ってもらえるかも知れない。反核・平和への道を歩む人が増えるかも知れない。そう思うと、被爆体験を語ることが私にとっての責務ではないかと思えたのです。

　以後、チャンスがあれば私は話すようになりました。何度お話ししても慣れるということはなく、いつも言葉足らずだったと反省ばかりしていますが、できる限り誠意をもって人類最初に核兵器によって被災したことを語るように努力しています。

　現在の世界情勢は、とても悲惨です。インドやパキスタンは核ミサイルを装備していますし、世界各国にあるウラン鉱では労働者が放射能汚染に曝されています。砂漠地帯や海洋での核実験なども先住民が冒されています。誰も彼らに保障しようとはしていません。湾岸戦争以後、紛争地に派兵されたアメリカの兵士の中にも被曝者が出ているそうです。

　アメリカが攻撃の手を抜かない湾岸戦争やアフガン、そしてイラクでは劣化ウラン弾による被害が続出しています。

　アメリカは劣化ウラン弾は核兵器ではないと言っていますが、劣化ウランで造った弾丸を使用すれば、空中に放射性物質を撒き散らすのです。兵器の開発が進んだ現在、広島や長崎で起こった被害より悲壮な放射能被害が出ているのです。

　2003年、つくば市で写真家の豊田直己さんの「イラク写真展」が開催されました。子どもたちの写真が沢山ありました。その子どもたちの悲しそうな目を見ていると、１９４５年８月、私も、あんな目をしていたのだろうと思います。そして、彼らも私と同じように、悲しい思い出を抱きながら生きていなければならないのです。子どもたちに悲しい表情は禁物です。輝かしい未来を見つめる輝いた瞳を取り戻して上げるのが地球市民の役目だと思います。

「平和はいい」「戦争は嫌だ」「核兵器反対」などと思うことは、簡単です。しかし、思うだけでは何も変わらないのです。何でもいい、少しでいい、発言し、行動に移すことです。

　ここ数年、世界中で大きな災害が頻発しています。そんな事態の中で、他者に対しての思いやりやボランティア活動が盛んになっています。私は、自己のためだけでなく他者へ愛をそそぐことによって、非戦・平和が成就すると信じていますから、いずれ近いうちに老婆がもの申すこともなくなっていくに違いないと、希望を持って生きていこうと思っています。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">01-語り伝える「あの日」</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 May 2007 16:37:01 +0900</pubDate>
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         <title>スウェーデン編1</title>
         <description><![CDATA[<strong>初めての旅</strong>

　広島の我が家の近くにスウェーデン人のキリスト教宣教師ヨーディス・アンデルソンさんが住んで居られた。彼女には世界各地から夥しい数の来訪者があった。その度に、私は被爆爆体験を語り原爆資料館を案内した。1995年9月、彼女が休暇で一事帰国されたので、彼女を追っかけてスウェーデンを訪れることにした。準備をしていると親しい友人たちも行きたいと言い出した。日を追って希望者が増え続け、総勢１７人になった。

　最初の訪問地ストックホルムでは、日本語が堪能なカリン・ヤンソン牧師の教会を訪ねた。その後、私がストックホルム周辺を平和行脚する際には、彼女が何度も通訳をして下さった。（2003年末、54歳の若さで心臓発作のために逝去されたと悲報があった時、私は、自分の気持ちをどう処理してよいか分からなかった）。

　２日後、一行は南の内陸部・ヨンショピンに移動した。

　パーティーの料理は持ち寄りで、私たち日本人はバラ寿司と餃子を供することになっていた。仲間が用意している間、私は新聞社からインタビューを受けた。

　手短に被爆体験を話しただけなのに、記者の目には涙があふれてきた。彼は「私の国は戦争をしないので、そんな恐ろしいことを想像する力なんか私にはありません。今の世界情勢を思えば、私の国が世界平和実現にむかって貢献することが必要です。いい記事を書きます」と言って、金色の産毛が光っている腕で涙を拭った。若くて弱々しい感じの青年記者だった。

　パーティーはスウェーデンの民族音楽団とダンシングチームが流れこんできて始まった。私たちも輪に入って踊った。

「日本人の体格が小さい理由が分かった。細い２本の箸では食べ物を口に持っていくまでにこぼれてしまう」と、老齢の男性が言った。交流は夜がふけるのを忘れさせた。

　翌日、私の記事が新聞に載った。それを読んだ人たちから、被爆体験を語るために再来をと要望がでた。ヨーディスさんは「私が通訳するからツアーをしよう」と、言われた。それが実現したのは、彼女が引退されて帰国後、２００１年からのことだった。

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ヨンショピンでの交流
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:49:42 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>日系二世アメリカンとヒロシマ</title>
         <description><![CDATA[　９７年４月初旬、日系二世のMさんがお孫さんと広島訪問されるから、お宿と案内をと沼津の友人から頼まれた。いつもするように、私は、マジックインクで彼の名を書いた紙を用意して広島駅に急いだ。彼は、引退牧師ですと流暢な日本語で自己紹介された。英語しか話せないK少年が寡黙なのは無理もない。

　夕食後、早々にK少年が寝入ったので、私たちは終わることを忘れて話をした。

　彼は松本市からアメリカに移民した一家の次男だそうだ。太平洋戦争が始まる以前、両親は先祖の土を踏んで来いと、長男を日本に送ったそうだ。兄は日本の風土、とりわけ両親の故郷が気に入って、アメリカに戻ろうとせずに慶応大学に入学したそうだ。そして、日本兵として戦死。一家は日本人収容所で辛い日々をおくったそうだ。彼は、広島が原爆でやられたのは真珠湾を奇襲したから仕方ないと嗚咽しながら語った。

　翌朝、広島平和記念資料館（通称・原爆資料館）に行った。「ひどい、恐ろしい」と、連発しながら見入っていた彼だが、地球儀に核兵器保有の量が国別に示してある展示物を見つけると「K、アメリカは凄いぞ」と、辺りに響く声で誇らしげに言った。

　帰りの電車の中で、彼は「私の容貌は日本人に見えますか、それともアメリカ人に見えますか」と囁いた。彼は何を聞き出そうとしているのだろうか・・・私は彼の顔をマジマジと見つめた。私の見るところ、彼の容貌は紛れもなく日本人であるから言葉を返すのをためらっていた。更に「ねぇ、私はアメリカ人ですよね」と、彼は有無を言わせない語調で押し付けるように言われた。

　その翌日、世界遺産になっている宮島に案内した。コロラドには海がないからと、K少年は貝堀りに夢中になった。十数個しか掘れなかったが、シジミ貝のスープはK少年を喜ばせた。

「日本が真珠湾を奇襲しなかったら、兄は死ななかった。日本が兄を殺した」という言葉と「戦後、収容所から開放された後、日本が窮乏していると知って支援活動を行った。アメリカから日本に送った援助物資の大半は日系人からだったことを知ってほしい」と言われたことは、今も私の耳に残っている。
　日本とアメリカの狭間で複雑な思いを交錯させていた彼。

ヒロシマを見た彼は、あれから変ったのだろうか、それとも、核保有を止めようとしないアメリカを誇らしく思っているのだろうか。

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（世界遺産の宮島：満潮時には海水が
厳島神社の床下を浸す）
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:51:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミャンマー編1-1</title>
         <description><![CDATA[<strong>ミャンマーからの風</strong>

　1997年7月、関西在住の友人門田紀子さんに案内されて、ミャンマーから神学校の副校長・Aさんが来広されたので広島YWCAで講演を依頼した。軍事政権下なので、国外での言動がチェックされる恐れがあるから、匿名で語るのが条件であった。

　以下は、Aさん講話。

“ミャンマー全土においては仏教の僧侶は特別扱いされている。と言っても、彼らは托鉢をして自活しなくてはならない。Aさんが住む地域メイミョは昔の首都マンダレー北方の高地にある。首都ヤンゴンから遠く離れていて、良くも悪くも行政が行き届かない。そのうえ、かつてイギリス軍の基地があったからキリスト教徒が多く、英語が通じる人がいる。一般に市民は貧しい。生活物資は豊富に市場に出回っているが、肉は贅沢品だし、内陸部なので魚介類は入手困難だから、蛋白質不足によるクル病に罹る人が多い。学生たちは文房具にも事欠いているが、現状を抜け出したい意欲があるから向学心が強い。”
　Aさんの講話の後、会場から対日感情について質問があった。

「戦時中、日本軍が略奪・強姦・殺戮をしたので、反日感情を持っている老年層が居ますが、若年層は、職のない人が多いので、日本を好きではないが出稼ぎに行く国として憧れています。教育者の私は、公正な世界観を持ちたいと心がけています。核兵器で破壊されたヒロシマを自分の目で確かめて、人類にとって何が課題かを学生たちに伝えたいと思っています」と、言われた。

　原爆資料館を回っているときも、平和公園にある数々の碑の前でも、彼女は何度も立ち止まり、両手を胸元に合わせて祈った。涙が頬を伝わっていた。さらに「啓子さん、被爆したのに、よく生きていましたね。亡くなった人の無念さを代弁してください」と、私の肩を抱いてくださった。

　Aさんが風のように去った後、YWCAで募金活動が始まり、翌年の春、募金と日用品を届けるために、紀子さんと私がAさんの学校に届けることになった。

　Aさんから、学生たちに被爆体験を語って欲しいと便りがあった。紀子さんが私の原爆体験記を英語に訳してくださった。英訳なった体験記を声に出して練習をするのが私の日課になった。
　それが、その後の私の平和行脚の一歩目になろうとは、神のみの知ることであった。

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（原爆資料館には多数の外国人の姿が絶えません）
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:52:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミャンマー編1-2</title>
         <description><![CDATA[メイミョの風に吹かれて

　広島YWCAで集めた募金が10万円になった。翻訳家の紀子さんと連れ立ってミャンマーに行くのは1998年3月と決めた。Aさんの神学校で催される研修会で被爆体験を語る、卒業式と彼女の結婚式とに列席するという予定もあった。

　ヤンゴンからマンダレーまで621キロ・13時間、列車の揺れと騒音は並ではなかった。さらに、Aさんの待っているメイミョに向かうのは外人専用のタクシー。だが、それはボロボロの日本製軽トラックだった。
　神学校の教室は天井からぶら下がっている裸電球が1個だけで、ガラスが割れた窓は厚紙で補修してあった。

　被爆体験を語っている最中、私は、こんな貧しさに耐えている学生たちに、ヒロシマを伝える必要があるのだろうかと考えていた。だが、それは杞憂だった。彼らは我先にと、核兵器を持たないこと、争わないこと、憎しみを持たないことが、世界平和の原点であると発言して下さった。しかも、現時点でも被爆者が病床にあることを心配して祈りを捧げて下さった。

　校長先生に募金を渡すとき「電球を増やすとか、校舎の修理にお遣いください」と言ったら、「形のあるものは壊れます。貧しい学生たちの生活を支えるために遣いたいです。そのほうが実りがあります」と言われたので、言葉を失った。

　その夕方、町で小柄なオバアサンに声を掛けられた。彼女は「学校には電灯があるけれど、一般の家には電気がこないの。学校にはテレビがあって町の人に見せてくださるの、私は『おしん』を観に行くのよ」と、言われた。

　私は、自分勝手な尺度持っていたことを知ると同時に、校長先生の言葉を胸で反芻した。

　卒業式は簡素だが荘厳だった。

　その翌日はウエディングドレスを着たAさんが馬車に乗って町を闊歩した。学生たちが育てた豚が披露宴の食卓に載った。

　披露宴が始まって半時も経たないうちに招待客が次々と姿を消した。と同時に窓から見物していた人たちが空席に殺到して食卓の料理を食べはじめた。「婚礼では貧しい人たちが入れ代ってご馳走を頂くのが風習です。そうでもしない限り、我々はお肉を食べるチャンスがないのです」と、町の人に教えられた。

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被爆体験を聞く学生たち
裸電球1個だけの教室は、つねに薄暗い
（校舎は旧イギリス軍用の建造物で、建設半ばで撤退したそうだから、階段も教室も危険が一杯）
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:53:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカ編1-1</title>
         <description><![CDATA[<strong>アフガン女性</strong>　
　
　１９９８年、広島に拠点を置くワールドフレンドシップセンターから派遣されてアメリカ東北部５州を行脚した。メンバーは長崎の被爆者、学生二人、私の計四人だった。

　９月１５日、メリーランド州アナポリスに着いたのは広島を発ってから２３時間も経っていた。私はアジア料理店を経営しているアフガン人ファヒマさんの家にステイすることになった。内心では「アメリカに来たのに、何故、アフガン人の家なの？」と不満だった。彼女の夫はアメリカ人で、日本人を招くのに賛同しているようには思えなかった。

　６日間の滞在中、夜な夜なファヒマさんから身の上話を聞いた。最初の夫はアフガン人だった。度重なる戦乱のせいでアル中になって死んだそうだ。近親者が地雷で身障者になった。化学者だった彼女だが、肉親を戦乱の地から救い出すためにアメリカに来て商売を始めたことなど、辛い話ばかりだった。「でも、今の夫に救われたのよ」と、嬉しそうだった。さらに「新聞で被爆者が来ると知ったので、私の家にステイするように頼みに行ったのよ。啓子なら、私の苦しみを分かちあってくれるよね」と言った。

　彼女の夫は、私がアメリカの原爆投下を責めるのではないかと思っていたらしいが、ファヒマさんに勧められて私の被爆体験記を読んでから、私たちの平和行脚を理解しようとするふうに見えた。だが、互いの距離が縮まるほどにはならなかった。

　他のメンバーは、典型的なアメリカ人の家にステイしていたから、陽気な話題に事欠かないようだったが、私がアジア料理を堪能していると知ってから「羨ましい。ジャンクフードばかりで、咽喉を通らなくなりそう」と言った。

　別れの時、「日本に来てください」と、ファヒマさんに挨拶したら「駄目。お金が溜まったら肉親をアフガンに連れに行くの。啓子こそ、またいらっしゃい」と、言われた。

　９・１１以後、アメリカがアフガンを攻撃した。アメリカに居住しているアフガン人が居心地の悪い思いをしているそうだが、ファヒマさんは妹夫妻をアフガンからアメリカに呼び寄せたし、レストランは繁盛していると、教会関係から伝わってきた。それが本当であって欲しいと祈るしか、私に出来ることはない。

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（レストランを切り盛りするファヒマさん）
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:55:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカ編1-2</title>
         <description><![CDATA[<strong>学校訪問と市民社会</strong>　

　アナポリス市長表敬訪問が最初のプログラムだった。通された部屋の中ほどに、ワシントン、ジェファーソン、フランクリンが独立宣言を起草した机が威容を誇っていた。人口35.000人。市議9人、そのうち女性が4人というのは頼もしい。

　いよいよ小学校訪問。私たちに与えられた時間は1人10分間。こちらは即席のチームだから打ち合わせ通りに運ぶわけがない。英語の達者な大学生とヘボ英語の被爆者との間に気まずさが漂う。

　子どもたちは被爆した佐々木サダコが、それに因る白血病で亡くなったと知っているが、その原爆をアメリカが投下したことについては、「リメンバー　パールハーバー」と口を揃えて言う。親たちがそう言うのだろう。子どもたちの興味は千羽鶴。折り方を習いたいと言われれば従うしかない。あせっているうちに時間切れになってしまった。

　小学生を相手にして、歴史認識の論争もないものと、私たちは黙りこんだが悔しさで胸がつまりそうだった。この市民感情のミゾは、どこまでも合意点を見出せないだろう。

　夜は、何通りもの集会に参加した。そられは持ち寄りの夕食会から始まる。これはアメリカ社会では慣わしであることが、おいおい分かってきた。

　多彩な集会の中でも私が興味を持ったのは、ベトナム帰還兵の癒しのグループだった。あの戦争は何だったのかと悩むあまり、未だに社会復帰できない人が多いそうだ。多くの市民が病んでいる人に手を差し伸べていた。歌ったり、何気ない話をしたりして、決して一人ぼっちじゃないと内的変化を促すのだそうだ。「ヤア」と、気さくに声を掛けてきたのは私服姿の市長さんだった。

　そんな運動をしている人たちも居るのに、あれから何度もアメリカは戦争を繰返している。アナポリスは映画「愛と青春の旅立ち」で知られている海軍兵学校の存在によって繁栄している都市であり、兵学校に属している人たちは特別のエリートとして尊敬されている。所詮、兵士は人殺しのプロではないかと、疑念が湧く。

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（支庁舎の前で：アナポリス市長と）
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:56:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカ編1-3</title>
         <description><![CDATA[<strong>スープキッチン</strong>

　ワシントンＤＣのブラザレン教会がホームレスのためのスープキッチンを開いている。その規模は聞きしに勝る施設で、まるで特大ホテルのキッチンのようである。世界各地から大勢のボランティアが集って来ているそうだ。肌の色もとりどりなのがいかにもアメリカらしい。運営は寄付によって賄われている。食品メーカーから現物の寄付が寄せられるし、社会復帰した人たちからも感謝の金品が寄せられるそうだ。

　私たちは1日だけのボランティアなので、単純作業をすることになった。献立はなかなか豪華で、デザートもコーヒーも付いているとは驚いた。私の担当はスープ類の配膳に決まった。

　12時を告げる教会の鐘が鳴り始めると同時にドドッと2階に駆け上がって来た人たちが我先にと行列をなした光景は、まさしく人の壁だった。

　大きなパン数個、山盛りのバターライス、茄子のシチューを盛った長方形のトレイが次から次へと私の胸元に突き出された。彼らの好みを訊ねてから、大きな丼にマカロニスープかトマトスープを注ぐ作業は並大抵ではなかった。内緒でお代わりを要求する人、恥ずかしそうに黙々と食べる人などは、とても直視できなかったのだが、慣れてくると私にも周囲を観察する余裕がでてきた。

　食べ終わってからも、スナック菓子やパンなどをポケットに忍ばせる人、給食をプラスティック容器に詰める人。そうしながら、私たちに愛想笑いをする人たちも居て、目のやり場に困った。

　ホームレスの男性たちの殆どが戦場の体験者で、しかも、有色の人が多いのを見れば、社会復帰が難しいという意味も見えてくるような気がする。女性たちは男性の暴力とか子育てに疲れた人だという。
　昨今、日本の各地にもホームレスの人たちが増え続けている。駅の周辺や川原や公園などに段ボールとか工事現場のようにシートを張った小屋風のものを見つけると、遠回りしてしまう私である。

　このスープキッチンの体験が、私にとって、何だったのか、答えが出る時が来るのだろうか。暗色の課題を胸に詰めたけれど、作業が終わると同時に空腹感が迫ってきた。昼食はホームレスの食べ残しを所望した。鍋の底から掬い取ったスープの味は絶品だった。

<img alt="7%20%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3.jpg" src="http://h-s-o.net/koo/murakami/7%20%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3.jpg" width="360" height="248" />
（スープキッチンの作業を終えて）
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         <link>http://h-s-o.net/koo/murakami/2007/06/13.html</link>
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:58:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカ編1-4</title>
         <description><![CDATA[<strong>平和教育のすすめかた</strong>
　
　98年9月、オハイオ州ブラフトン。

　ジーンさんの家にステイした最初の夜、被爆体験を話して欲しいと言われた。夕食後でもあるし翌日の平和授業で話す予定になっているので手短に話していると、「私の愛する生徒たちは小学校3年生なのよ。お願いだから、日本の文化とか童謡を教えて上げて」と、涙声で懇願された。ベッドの中でどうしたものだろうかと考えているうちに夜が明けた。

　1時限目は彼女の授業の参観。名指しされた女児が朗読を始めた。児童たちはてんでにパソコン、寝転がり、カードで言葉遊びをしているので不思議だった。

　2時限目になった。ケイコ・ムラカミと紹介されたので「アジアの多くの国では苗字を先、名前は後から呼びます。私は村上啓子です」と、自己紹介をした。孫がお世話になっている保育園から託された千羽鶴を机の上に広げると「本当に、子どもたちが作ったの？」と感嘆の声があがった。「歌を教えて上げる」と言うと拍手が起こった。私でも簡単に訳せるので「春が来た、春が来た、どこに来た・・・」と歌うと、児童たちも歌いだした。

　ふいに「啓子、ゴー」と、ジーンさんが目配せしてくれた。

　「私が体験したヒロシマのことを聞いてください」と言って、手短に被爆体験を語った。賑やかだった教室が静まりかえって恐ろしいくらいになった。

　私に駆け寄って手を握ってくれる子、涙を拭う子、両手で顔を覆う子。幼いなりに理解してくれたようだった。

　午後。近くの大学で平和教育の進め方という授業を参観した。「平和の国を想像して絵を描きましょう」と言えば、どの子も動物を描くそうだ。「一つのテーブルに誰を招くか」と課題を与えて話し合いをする。「貴方の肌は、私が飼っている馬と同じ色ね。大好きよ」と言えるような人格形成を目指して教育を進めるのがいいそうだ。白人と有色人との差別が見えた。

　町を通り抜けると高速路。2時間も走ると飛行機の発明者ライト兄の出生地に着いた。視界全てが収穫の終わったトウモロコシ畑。動いているは鳥だけだった。昔・・・日本の広島にアメリカによって原爆が投下されたと言っても、そんなことは関係ないと思っている人たちが住んでいる。　　　　　　　　

<img alt="8%20%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%A8%E6%8A%98%E9%B6%B4.jpg" src="http://h-s-o.net/koo/murakami/8%20%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%A8%E6%8A%98%E9%B6%B4.jpg" width="362" height="248" />
（子どもたちは千羽鶴が好き）　　　　　　　　　　　　
]]></description>
         <link>http://h-s-o.net/koo/murakami/2007/06/14.html</link>
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 10:59:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アメリカ編1-6</title>
         <description><![CDATA[<strong>ツインシティー</strong>

　ミシシッピー川を跨いだ橋を隔てた隣接都市ミネアポリス市とセント・ポール市とは、双方を合わせてツインシティーと呼んでいるそうだ。

　聞けば、ミネソタ州はネイティヴアメリカンとヨーロッパからの移住者とが半分ずつくらいに居住していて、自由・平等を標榜するアメリカらしい都市だと言う。マルティン・ルーサー・キング牧師、マハトマ･ガンジー師の誕生日には市民が平和行進をするそうだし、8月6日や9日には核廃絶の願いをこめて広島や長崎の祈念集会をするそうである。

　これまで訪問した地は、必ずしも原爆投下された側の私たちを寛容に受け入れてくれたわけではなかった。落胆の連続だった三週間を振り返って、少なからず疲れを覚えていた。

　教会の集会で「ヒロシマ・ナガサキ博物館をアメリカに建てればいいのに」と発言があったのは、私の気持を駆り立てるのに充分な言葉だった。「願ってもないことですが、いろいろの障壁があります。アメリカ市民自身で造ってください」と、応えた。

　98年10月6日、ついに、最後のプログラムであるマカレスター・カレッジでの「原爆と平和集会」を迎えた。ここはアナン国連事務総長をはじめ国際平和に貢献している人材を輩出しているそうで、市民の信頼も篤いそうである。

　夕刻から始まる集会には、学生はもとより一般市民もぞくぞくと詰め掛けて来て、広い会場は瞬く間に満杯になった。最終回のプレゼンテーションだというので、私たちの気合も入っていた。私たち4人の発言が終わった後、会場は水を打ったような静けさになった。司会者が「質問を受け付けます」と、何度も呼びかけたが、誰も何も言わなかった。私たちは落ち着かない表情で顔を見合すだけだった。

　ややあって、「もう充分すぎるほど、皆様に語って頂きました。原爆の実相について学びました。これからは、ともに、平和のために働きましょう」と発言する人があった。次の瞬間、拍手の嵐が起こって、大勢の人が私たちに握手を求めようとして近づいて来た。

　日本人の留学生も数人居て通訳をして下さった。「広島の復興にはどれくらいの歳月がかかったか」とか「アメリカを恨んでいないか」と、質問の内容は同じようなものだったが、真珠湾のことを持ち出す人がいなかったのは、流石にマカレスター・カレッジと評価していいものか、それとも、たまたま、そういう意見に出くわさなかったのか不明である。

　対話が出来ないで、不定愁訴が溜まったまま帰国するのかと半ば諦めていたが、少しだけアメリカに希望を見つけたような気がした。

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（最終回のプレゼンテーションを終えて）
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 11:01:03 +0900</pubDate>
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         <title>10 イギリス編1</title>
         <description><![CDATA[<strong>旧日本軍の捕虜</strong>

　広島在住のスウェーデン人女性宣教師、ヨーディス・アンデルソンさんから連絡があった。「ケイコ・ホームズさんに伴われて旧日本軍の捕虜だった元イギリス兵たちが来日なさる。原爆慰霊碑前で戦死者追悼礼拝をするので司式を頼まれた」とのこと。「戦時中の日本軍が凶暴だったので、イギリスの対日感情は良くないのよ。しかし、戦争をする者は同罪だと認識してもらうチャンスだから、啓子、彼らにヒロシマを語りなさい」とおっしゃる。

　私の被爆体験記は外国人に語るために英訳してあったから応じることにした。だが、私に与えられるのは5分間だけと分かったとき、私は自分の体験を語るよりもヒロシマを伝えることが重要だと考えた。
　1998年11月2日。一行は原爆慰霊碑の前に整列された。ヨーディスさんの司式で礼拝は進行していった。彼女の紹介で私は彼らの前に立った。簡単な自己紹介をした後に、市川和子英訳のヒロシマを語る詩・水野潤一「しずかに歩いてつかァさい」を朗読した。

　その詩は、このヒロシマは大勢の人が亡くなった地だから、心して静かに歩いてくださいと訴えた内容だから、聞いて下さった人々の胸を打ったらしく、どこを歩く時も「静かに・・・静かに」と、囁きあって、静かに歩いて下さった。

　ケイコ・ホームズさんは、元イギリス兵捕虜たちの癒しに奔走している功績によって、エリザベス女王から勲章を授与されておられる。報道関係者が「ケイコという名が多いですね。ケイコが揃った写真を撮りますから、並んでください」と促された。私はケイコさんと、そこに居合わせた別のケイコさんと3人並んでカメラの前に立った。ケイコさんが私の耳元で「元イギリス兵捕虜たちは、第二次世界大戦で、自分たちが最も辛い目にあったと信じているのです。イギリスに来て被爆体験を語りなさいよ」と言われた。それを聞いた時、ケイコさんと私の距離が急接近しているのを感じた。

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元イギリス兵たちと
その遺族や家族
(原爆慰霊碑前にて)
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         <pubDate>Wed, 27 Jun 2007 11:02:29 +0900</pubDate>
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