被爆の実相

当時の広島市の人口は、軍関係者約4万人を含め35万人前後であったとされているが、同年7月から実施されていた第6次建物疎開で入市していた近隣町村からの義勇隊、動員学生など約1万人、また仕事などで市内に入っていた人も多く、昼間人口は40万人になっていたという説もある。

その中で同年12月末までに軍人2万人を含め、約14万人が死亡したとされている。(1976年の「国連への要請書」より)

この数字から換算すると、原爆投下から約5ヶ月で広島市の人口の3人に1人が亡くなったことになる。
そして生き残った被爆者も、その後長く原爆の後障害による肉体的苦痛。家族、家すべてを失ってしまったことからくる精神的、経済的苦難の年月を送ることになるのである。

以下は、広島における被爆に関する基礎知識である。

原爆投下

1945年8月6日午前8時15分、広島市の中心部に位置するT字型の相生橋をターゲットとし上空31,600フィート(約9,600メートル)で 世界で初めての原子爆弾がB29エノラ・ゲイから投下された。

そして通常爆弾TNT15キロトンの破壊力を持つとされる一発の原爆は、島外科の上空600メートルの地点で炸裂した。その時の強烈な閃光と爆音から、その後多くの被爆者達は原爆を「ピカドン」と表現している。炸裂と同時に空中に直径約100mの火球ができ、それは約10秒で消滅した。

8時15分で止まった時計

8時15分で止まった時計
爆心地より1.6キロで被爆
二川 一夫さん 寄贈
広島市 平和記念資料館所蔵


きのこ雲

爆弾投下5分後には直径約3マイル(約5キロ)にわたって巨大な雲が広島市を覆った。
ほとんどの被爆者が証言の中で「目の前が真っ暗になって何も見えなくなった。」と述べているのはこの雲のためである。
その中心部から白い煙の柱が立ちあがり、それは上空55,000フィート(約17,000メートル)に達し、頂上は大きく広がっていった。
それが「きのこ雲」と呼ばれる所以である。

原爆投下約1時間後、80キロ離れた瀬戸内海上から米軍撮影

原爆投下約1時間後、80キロ離れた瀬戸内海上から米軍撮影
ヒロシマ・ピース・サイトより

原爆の威力

原爆のエネルギーは熱線35%、爆風50%、放射線15%と言われている。

熱線

投下直後、地上600mで炸裂した原爆は、火球となり瞬間的に摂氏100万度に達し急速に膨張、10秒後に消滅した。爆心地付近の地上では約摂氏3000〜4000度の照射があったと推定される。
少し離れたところからこの火球を目撃したある被爆者は、「太陽が広島に落ちたかと思った」と表現している。
この太陽の表面温度にも匹敵する高温の熱照射は、半径3キロ以内の地上にいる生き物に多大な被害をもたらした。

爆心地より半径1キロ以内の屋外にいた人では、一週間以内に90〜100%が亡くなっている。
即死者数は把握されていない。 爆心地近くでは、影だけ残して人体がすべて跡形もなく熔けてしまった例もある。瞬間的な照射により、影以外の部分が焼け、あたかも影が道路などに転写されたように見えるためである。また半径2キロ以内の遮蔽物のないところにいた人では一週間以内の死亡率は83%であった。

万代橋の欄干の影 爆心地より890メートル

万代橋の欄干の影 爆心地より890メートル
米軍撮影

建物に関しては、半径3キロ以内にある木造建築物では、爆発による爆風より以前に、熱線によって自然発火したと考えられている。 その火は「嵐」のように吹き荒れ、夕方まで市内全域に猛烈に燃え広がり、その後3日間は市内各地でくすぶり続けた。

全身火傷の男性 爆心地から1キロメートル内

全身火傷の男性 爆心地から1キロメートル内 1945(昭和20)年8月7日
尾糠政美さん撮影

爆風

原爆炸裂とともに発生した火球は、熱線と同時に数十万気圧という超高圧状態を生み出した。
その超高圧と大気圧との気圧の差が爆風となったのである。
その爆風は半径800メートル以内の耐震構造を持たないコンクリートの建物をも完全に崩壊させるものであった。
当時の広島では家屋のほとんどが木造だったが、半径2キロ以内ではすべての木造建築物は崩壊した。

爆風による各種構造物等の被害の程度(原爆被害者対策事業概要より)
爆心地からの距離(m) 最大風速 被害の程度
800m以下 200〜300m / 秒 耐震構造のコンクリート以外、完全崩壊
1800m以下 72〜200m / 秒 全ての建物が大破
2600m以下 36〜72m / 秒 木造建築物では修理しても使用不可
3200m以下 28〜36m / 秒 部分損壊、修理をすれば使用可能

爆風と熱線による被害は明確に区別することは不可能であるし、その二つとその後起こった火災が組み合わさり、複雑に関係しあって被害を増大させたと考えられる。
爆心地から半径2キロ以内では、耐震構造を持つコンクリートの建物を除いて、すべてが崩壊し焼失した。
また3キロ以内でも 90%以上の建造物が崩壊、焼失した。

被爆直後の広島全域 1945年10月

被爆直後の広島全域 1945年10月
米軍撮影

放射能

原爆の被害について語るとき、放射能というこれまでに人類史上使われたことのない、また決して使われるべきではなかった物質を取り上げないわけにはいかない。
広島型原爆の破壊力の点では15%にすぎないが、その恐怖は原爆投下直後から始まり、子々孫々の代に至るまで消えることはない。
それは放射能という物質の中には半減期ですら数万年のものもあり、またそれを浴びた者の染色体までをも変形させてしまうからである。

急性障害

原爆投下直後からその年の終わりくらいまでに現れた放射能による身体的障害を急性障害と呼ぶ。
被爆直後から2週目の終わりごろまでに嘔吐、下痢、発熱、倦怠感などが現れ、続いて脱毛、歯茎からの出血、紫斑などが現れた。
被爆直後は外傷もなく、元気そうに見えた者も次々と亡くなっていった。

脱毛、歯茎からの出血、皮下出血の紫色の斑点が現れ、死直前の兵士。

脱毛、歯茎からの出血、皮下出血の紫色の斑点が現れ、死直前の兵士。
爆心地より約1キロで被爆 1945年8月末、木村権一さん撮影
ヒロシマ・ピース・サイトより

後障害

原爆の被害が他の兵器による被害と異なる点は、いつどのような障害を発症するのか誰にも分からないという点であろう。
現在分かっている主な後障害には、原爆白内障、白血病、悪性腫瘍がある。
遺伝的影響は今の時点では確認できていないが、今後世代を超えて観察していかなければわからない。

ケロイド 被爆の翌年から
白内障 被爆後5年くらいから
甲状腺がん 被爆後10年くらいから
乳がん、肺がん 被爆後20年くらいから

黒い雨

原爆投下の20〜30分後から黒い雲が湧き上がり、広島市の中心部より北北西の方角に移動していき、午前9時ごろから午後4時ごろにわたって、北部や西部で驟雨(しゅうう)現象を起こした。雨は当初1〜2時間は泥分の多いねばねばした黒いものであった。
それは原爆炸裂時に地上から巻き上げた泥塵や、その後発生した火災による煤塵であったが、原爆から放出された放射性物質を含んでいたため、この「黒い雨」に直接うたれた人々は、その後直接被爆した人と同じ症状に苦しむことになった。

救援活動

原爆投下直後の広島市内では、爆心地近くで即死した者に加え、またたく間にひろがった火の海の中で、爆風によって倒壊した家屋の下敷きになり、逃げ出すこともできず、生きながらにして焼かれてしまった者も多くいた。
かろうじて市内中心部から大火傷を負いながらも、生き残った人々は東へ西へ南へ北へと、とにかく安全なところに身を置くために逃げ惑った。
着ていた服もボロボロになり、ほとんど何も身にまとわず、皮膚はやけただれ、だらりと垂れ下がり、言葉を口に出す力さえなく、ただ一歩一歩足を前に出すだけで精一杯の人々の長い列は、多くの証言者が「まるで幽霊の行列」のようだったと述べている。

炎の海の市内から大火傷を負って逃れてくる人々

炎の海の市内から大火傷を負って逃れてくる人々
1945年8月6日午前8時45分頃
爆心地から約2200m 牛田南一丁目
平田 照昌さん作


この人々と逆に、燃え盛る市内に入って行こうとしたのは、我が子、兄弟、親を探そうとした人々であった。
その多くは行く手を火の海にさえぎられ、幾日も幾日も歩き回った。
また爆心地から4キロのところにあった陸軍船舶司令部(通称:暁部隊)は、比較的に被害も少なく、ただちに船とトラックを使って被災者の救援のために、市内中心部に向かって活動を開始した。
広島でたいへんなことが起こっていると聞いた近隣の町村からも、多くの人々が救援のために市内に入って来た。
これらの人々もまた残留放射能によって被爆し、その後原爆症に苦しむことになる(入市被爆)。当時広島に投下された爆弾が原子爆弾であったことは、人々には知らされなかった。

学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた負傷者

学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた負傷者
爆心地から約3,100m 旭町
陸軍船舶司令部撮影


市内から運び出された重傷を負った被爆者達は、陸軍検疫所のある似ノ島をはじめ、50数カ所に設けられた救護所に連れて行かれた。
しかし広島は壊滅的な破壊を受けており、市内にはほとんど医師も看護婦もいなかった。
また薬もすぐに底をつき、治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりといったことしかできなかった。真夏の一番暑い時期であったために、傷を負ったところは膿を持ち、そこに何十、何百というウジがわき、それがまた被爆者を苦しめた。
市内では黒焦げになった遺体をあちこちに集め、荼毘に付す作業が何日も続けられた。

トラックで集めた死体を川原で火葬する

トラックで集めた死体を川原で火葬する
1945(昭和20)年8月17日
爆心地から約2,000m 福島町
藤井 茂男さん作


被爆の実相 参考文献

  • 「広島原爆戦災史 第一巻総説」1971年8月6日 広島市役所発行
  • 「原爆被爆者対策事業概要」1998年7月 広島市社会局原爆被害対策部発行
  • 「原爆放射線の人体影響1992要約版」1993年3月31日第1刷 (株)文光堂発行 放射線被爆者医療国際協力推進協議会編
  • 「図録 ヒロシマを世界に」1999年第1刷 広島平和記念資料館発行
  • 「ヒロシマ読本」1978年7月20日初版 (財)広島平和文化センター発行 小堺吉光著

写真、絵の提供

  • 広島平和記念資料館
  • 広島原爆障害対策協議会
  • 松重美人氏



ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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