3.被爆で夫婦が生き埋め

生いたち

私は香川県高松市片原町(かたはらまち)で、父、川井清、母、ヒサとの間に、長男として生まれました。姉が1人おりましたが、私とだいぶ、歳(とし)が違ったように記憶しております。父母は百姓(ひゃくしょう)をしておりました。私は体が弱く、5歳の時と、7歳の時に2度も大病(たいびょう)を患(わずら)いました。後に母からは、脳膜炎(のうまくえん)だったと聞かされております。それが原因で、とうとう小学校にも行きませんでした。私が4歳の時に父が死にましたので、姉の嫁(とつ)ぎ先に厄介(やっかい)になり、13歳まで育ててもらいました。その姉がまた死亡しましたので母のところへ帰ろうと思いました。けれど母が再婚している事を知り、家出(いえで)同様にして大阪に行き、警察で事情を話し、署長の紹介で理髪店に行き、20歳まで住み込み奉公(ほうこう)をしました。以後、転々と就職先を変え、27歳のとき縁があって20歳の穂積美恵と結婚し、やっと腰を据(す)えて自分で理髪店を開業しました。お陰で商売は繁盛(はんじょう)するし、長男平一、次男平二と2人の子どもにも恵まれました。しかし、妻の従兄弟(いとこ)がとなりに店を構えて張り合い、感情的に面白くなくなったので、思いきって長男が3歳の時に広島に移転し、色々な理髪店に職人として勤めました。

35歳の時、観音町西(かんおんまちにし)で理髪店を開業し、以後15年間無事に過ごしました。太平洋戦争が日増しに激しくなり、昭和20年には長男が軍人となり沖縄本島(おきなわほんとう)に行き、次男は、満州建国大学(まんしゅうけんこくだいがく)に入学して、夫婦2人で理髪店は開いておりました。物資不足の時代で、今日は雑炊(ぞうすい)、明日は、お米の工面(くめん)と、鉄道草(てつどうぐさ)や糠団子(ぬかだんご)など、食べる事に精一杯でした。

地獄の絵図

昭和20年8月6日は、朝から良く晴れた日でした。8時15分ころに、物凄(ものすご)い閃光(せんこう)と爆音(ばくおん)とともに家屋が倒壊(とうかい)し、妻の美恵と2人が生き埋めとなりました。私は左目に、家の木舞竹(こまいたけ)が突き刺さり非常に痛みましたが無我夢中(むがむちゅう)、命からがら外に這(は)い出る事が出来ました。

ちょうど、散髪に来ておられた妊婦(にんぷ)の方と、その子どもさんを助け出し、近所の家もほとんど倒れていましたので、下敷きになっていた人を10人以上も助け出しました。顔見知りのおじいさんが、倒れた柱につかまって「助けてくれ」と叫んでおられたので、抱えて逃げようとした時、釘が足の裏から甲の方まで突き抜けました。それが原因で長い間患(わずら)いましたが、薬など無い時代でしたから手持ちの赤チンで治療(ちりょう)しました。

痛む目や足を庇(かば)いながら妻の手を引き、福島川(ふくしまがわ)の川原に避難(ひなん)をしようと、逃げる道中の事でした。熱線で焼け爛(ただ)れて、肩から皮膚(ひふ)がぶら下がっている人。顔が黒焦げになった子どもさんが「かあちゃん僕(ぼく)じゃァ」と泣いて取りすがっても、その母親には我が子の顔と信じられないようです。まこと地獄(じごく)の絵図(えず)を目(ま)の当たりに見る思いでした。

天満町(てんまちょう)電停近くに、電車が2台止まっていて、中に6人くらい死体となっておられました。また、防空壕(ぼうくうごう)の中で全身ヤケドされ、「水をくれ、水をくれ」と叫んでいる人がありましたが、ヤケドの人に、水を飲ませると死ぬと聞いていましたので、飲ませませんでした。翌朝行って見るともう息絶えておられましたので、「ああ、あの時一口でも水をあげておけば良かった」と後々まで後悔(こうかい)し、心残りでなりませんでした。

6日のお昼には自宅付近は丸焼けとなり、何ひとつとして取り出すことも出来ず、その晩から天満町の電車道近くの陸軍の防空壕に寝起きするようになりました。8日ころから、兵隊さんと一緒に近所に穴を掘り、道路に転んでいた死骸(しがい)を30体以上埋めましたが、その臭い事といったらお話にならないほどで、死臭(ししゅう)鼻をつくとはこの事だと思いました。川には、人の死骸(しがい)、牛や馬の死骸もそれこそたくさん流れておりました。被爆(ひばく)の時に黒い雨が降り、それがかかったために、皮膚病や、シラミ をわかして、見るに耐(た)えない人もたくさんおられました。

左眼失明

被爆後、防空壕の中で1年くらい暮しました。大変な食糧難で、玄米が少しばかり配給されましたが、ビンの中にいれて細い棒で突くのですが、なかなか搗(つ)けずに困りました。食べ物が無いのが何よりも辛(つら)く、木の根や草の根も食べました。そのころ、田舎(いなか)から救援物資としておにぎりの配給がありましたが全部腐(くさ)っており、福島川に捨てました。その時の情ない気持ちは今でも忘れる事が出来ません。水道の水が長い間出なかったので、ポンプの水を使っておりました。それが悪かったのか、妻の美恵が赤痢(せきり)にかかり大変弱ってしまいました。それを見かねた同じ(ごう)に住んでいた5人くらいが宇品(うじな)の方まで歩いて行って薬を買ってきてくださり、人の情(なさけ)をしみじみありがたいと感謝しました。

その後、家内(かない)は腰の痛みがひどくなり、方々通院しましたが、今日に至るも回復しておりません。私も目を痛めて、ずいぶん眼科に通院しましたが、左目はとうとう失明してしまいました。

 

昭和21年9月に、もと開業していた西観音町にバラックを建て、やっと天満町の防空壕生活を引き払い、何とか理髪店を再建する事が出来ました。

その前年12月に、長男平一が足に負傷しながらも何とか命を取り留めて沖縄から復員(ふくいん)し、満州(まんしゅう)にいた次男平二も21年の暮れに引き揚げてきて、苦しい中にも家内一同、全員が無事でいたことを喜び合いました。その後何かと辛いながらも家業に励んだお陰で、息子たちもそれぞれ立派に家庭を持ち、私たちから独立していきました。

昭和42年、妻と2人で相談し、約40年間住みなれた家と土地を売却し、舟入南(ふないりみなみ)で借家住まいをしておりましたが、よる年波(としなみ)と先行き不安を感じて、息子たちにも相談しましたが、夫々(それぞれ)家庭の事情があり同居も難しく、夫婦2人原爆養護ホームに入所させて下さるように市役所にお願いに行きました。

妻とともにホームに入所

昭和49年1月16日、養護ホームに入所させていただいてからは、夫婦2人の部屋に入れてもらい何不自由ありません。病気にかかっても舟入病院(ふないりびょういん)が近いため安心で、何から何まで至れり尽せりで大変ありがたいと思い、毎日が感謝の気持ちでいっぱいです。これから先、2度とない人生を妻とともに1日でも長く生きさせていただきたいと思っております。

川井平三(85歳) 記

被爆地
観音町、居宅の屋内(爆心地より1.3km)
当時の急性症状
左眼に木舞竹がささり負傷
家族の死亡
死亡者なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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