6.ひとりで被爆して

生いたち

私は、尾道市(おのみちし)栗原町(くりはらちょう)で農業をしていた父・上田浦平、母・タヨの長女として生まれました。9人兄妹でした。私の上には6人の兄がおりましたが、いずれも20歳代で病死しました。私の下に弟と妹がおりましたが、弟は赤ん坊のとき亡くなり、妹は42歳で死にました。私は、栗原小学校を2年で中退しました。父は、私が6歳の時病死しました。私は栗原町で女中奉公(じょちゅうぼうこう)に出て、そこに3年間つとめました。そのころは母1人で農業をしておりました。女中奉公をやめて、岡山県備中(びっちゅう)のサナダ帽子製造所で働きました。ここで2年働き、その後、大阪府泉南郡(せんなんぐん)の紡績工場に4年間つとめ、尾道市に帰って来ました。帰ってきて遊んでいるわけにゆかず、尾道駅前の旅館に仲居(なかい)としてつとめました。

24歳の時、25歳だった福山市の岡本勝一と結婚しました。当時、主人は映画館の楽師(がくし)として働き、私は喫茶店(きっさてん)で働いておりました。結婚後は夫、夫の母、弟の4人で福山市紅葉町(もみじちょう)に住みました。夫の弟は福山市内の会社勤務でした。4年後、夫の姉の嫁(とつ)ぎ先が広島市舟入本町(ふないりほんまち)にあり、姉の主人がトタン加工業をしていたので、夫はそこに行き、トタンの職を習い仕事をしました。少し日がたってから、私が呼ばれたので行ってみますと、夫は肺炎(はいえん)で寝ておりました。しばらくたってから肺炎が治り、元のトタン加工で働きました。当時、私たちは舟入本町の借家に住んでおりました。私は寿屋(ことぶきや)で働きました。昭和14年、主人に召集(しょうしゅう)がきて、軍人としてシンガポール方面に行きました。私は舟入幸町(さいわいちょう)に転宅し、三菱関係の中島製材所につとめました。

イモの葉かげで死んだ人々

昭和20年8月6日当日は、朝、製材所に出勤しようと弁当を手にして道路に出た時でした。ドカンと大きな音がして、その瞬間、私は道路に伏せました。私の家の北隣(きたどなり)の奥さんと私は立話をしておりましたので、その奥さんも、私同様、地面に伏せたのです。少し時間が経過して立ち上がってみると、私はケガひとつなかったのですが、その奥さんは伏せた位置が悪かったのか、起上ってみると左腕の皮膚(ひふ)がたれ下り、ボロボロになっていました。

町内会で非常の時は、江波山(えばやま)に避難(ひなん)するよう申し合わせがしてあったので、私はさっそく、江波山に行きました。ついてみて、何か食べるものはないかと探しましたがありません。腹がへって困り、舟入川口町(かわぐちちょう)の唯信寺(ゆいしんじ)に行きましたが、食べるものがありません。近くのイモ畑に行き、イモを掘って食べようと、イモの葉を上にあげると、その下に死人がいました。よく見るとイモ畑のうねとうねの間、イモづるの下にも、何人となく死んでおりました。考えてみますと、身体があついので、被爆者(ひばくしゃ)はイモの葉をかげにしたものと思います。お寺に帰ってみるとある婦人のお産が始まっており、近くの人が見ているだけでしたから、私は皆に指図(さしず)してこのお産を片付けました。

私は疲れてしまって身体を休めたい一心でした。それで建物として残っていた、原爆ドームに足を運びました。ついてみると、ヤケドした人でドームはいっぱいでした。仕方なく、私の勤めていた製材所の監督さん宅が、大芝町(おおしばまち)にあったのでそこを訪ね、1週間ばかりお世話になりました。それから、家のことが気になったので、舟入幸町に向け帰途(きと)につきました。

土手の草を枕に

大芝町から自宅に帰る途中、相生橋(あいおいばし)を歩いていたら、以前、金を貸した人にばったり会い、金を返してもらいました。舟入幸町に帰りましたが、私の家も近所の家も皆倒れて、手の付けようもありませんでした。知人をたずねて安佐郡(あさぐん)の温井(ぬくい)へ行き、そこが農家でしたから、農業の手伝いをして3ヶ月くらいいました。ずっと1人で、子どももおらず、食べものについては割と不自由しませんでした。

 

舟入幸町に帰って来て、手持ちの金で、進駐軍(しんちゅうぐん)の煙草(たばこ)を仕入れてこれを売り歩きました。また、そのころ、己斐(こい)の闇市場に行き、餅や寿しを作って商売しました。寿しの材料の米は、安佐郡(あさぐん)鈴張(すずはり)に行ったり、佐伯郡(さえきぐん)水内(みのち)に行って、仕入れの交渉(こうしょう)をしました。そのころは、大芝町の土手の草を枕に寝たものです。そのうち、舟入幸町にバラック建の飲み屋が出来たので、ここで働きました。

 

昭和20年暮に、主人が復員(ふくいん)してきましたので、舟入本町の煙草屋の2階を借り、主人は近所の製材所で働くようになりました。その後、夫婦共働きで生活しておりましたが、昭和54年5月ころ、主人が病気になり入院しましたので、私はこれの看病をしましたが、その甲斐(かい)なく、その年の11月に死亡しました。

 

1人暮しとなり、頼るところ、住む家もないので、近くの民生委員(みんせいいいん)のお世話で当ホームに入所しました。ホームは、入ってみて申し分はありませんが、ただ入所者同士の人間関係で気を使います。

岡本 モモコ(72歳) 記

被爆地
舟入幸町(爆心地より1.5km)
当時の急性症状
なし
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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